各地の水害、目を覆うばかりです。
被災された方々が、どれほどの失望の中におられるかと思うと、言葉もありません。
心より、お見舞い申し上げます。
それにしても、毎年のように起こる水害。
それぞれ50年に一度とかの枕言葉がつくけれど、そういいながら毎年どこかで起こっている。
2年前は実家あたりだった。
ところで、コロナと自然災害、まるで違うもののようで、同じ匂いもする。
(多くの方が思うだろうが、敢えて言うなら)
どちらも地球の悲鳴に思えるのだ。
今の人口で、あるいは増加率で、今のような暮らしをするのなら、もう地球は持たない。
人を減らすか、さもなくば暮らし方を変えてくれ。
それが嫌なら立ち退きだ。
出て行ってくれ!
コロナも自然災害も、そういう命題を、家主の地球が人類に突き付けているのでは?と思う。
特効薬はともかくとして、どんな答えを出せばいいのだろうか?
コロナが流行り出した時に、思い出した映画がある。
「コレラの時代の愛」で、下はパンフレットの写真。
コロナとコレラという音の類似性と、疫病という共通項で思い出したのだった。
この作品は、「百年の孤独」等で知られる、コロンビアのノーベル賞作家、ガブリエル・ガルシア=マルケスの小説を映像化したものだ。
19世紀末から20世紀初頭に至る、内戦に次ぐ内戦の混迷期で、かつコレラの蔓延した時代の物語。
まるで強烈な伝染病のコレラにかかったかのように、愛を拗らせ、一人の女性を想い続ける主人公。
50年以上を経て、女性の夫が亡くなると、彼は長年の思いを打ち明ける。
返ってきた言葉は冷たい。
「なぜ、こんな時に貴方そんなことを?」
2007年公開となっているので、見たのは10年以上前になる。
それもあって実は詳しい内容は忘れてしまった。
映画の内容よりも、中南米赴任歴のある共同通信の記者さんが(←古い知り合い)、ガルシアの熱烈なファンで、映画化を画期的なことと喜んでいた記憶が勝るのだ。
執拗な愛は、今なら、ストーカーだ。
南米のユタっとした空気感の中の濃厚な物語。
コロナと自然災害、地球からの警告を聞きながら、この映画と比較して今の時代の愛を考える。
夜の街の感染の多さを知ると、余計にそう思う。
男女の愛もだけれど、それは一まず横に置くとして、私は世代間の愛を模索する。
混迷のままの、困難な未来を次の世代に渡してはいけない。
私が若者だったら、渡されても困るよ。
上の世代ができるのは、地球からの警告に耳を貸し、先頭に立って生き残る道を探ることだと思うのだ。
先の見えた自分たちはどうでもいいじゃあないか。
舞妓さんも感染した。
お座敷で、回し飲みなど強要しないで(←あくまで想像です)、こんなプレゼントで粋な愛を表現してほしいなあ。
コロナの時代のお座敷遊び、花街への愛があるからこそ、ソーシャルディスタンスが大切です。
追記
「コレラの時代の愛」をリスペクトして、「コロナの時代の愛」を、誰かに書いて欲しいなあ。
もうすでに書き始めているかも?