もうちょっと切ない気持ちになるかなあと思っていたのですが、気持ちの整理がついてなかったのか、それとも完全に落ち着いていたのかよく分からないですけど、あまり感傷的にならずに法要を済ませました。そんな親戚一同集まってみたいな大層な事は嫌いな親父だったので本当の身内が4人集まって実家でした一周忌。なんか普段の生活の延長線上でやれた感じでとても良かったと思っています。

近しい人や親族や身内の死に、僕はワンワン泣いた事がほとんどない。悲しいとか辛いという気持ちは勿論あるのだけれど何故かそれと「泣く」という事がイコールにならない。自分の感情とは別にどこかで俯瞰的に見ている所があるのかもしれない。受け入れ切れてないとというのともまた違う感じ。冷静になってるわけでもないんやけど、この感じをどういう風に言葉にしたら良いのか‥語彙力がないのでこれ以上は言葉にしても余計に訳の分からない事になりそうなのでこの辺にしておく。まあとにかくそんな感じです。

自分の人生について、人の死によって考えさせられる事は沢山ある。このままこんな生活送ってて良いのだろうか!?。もっと命を大切にする生活を自分も送らないといけないなあとか、これから先の事も含めて思う事は多い。結局は自分本位なのかもしれないですね。でも最終的に考えないといけないのは自らの生き方をどうして行くかという事であったりする事もあるので間違ってるとは想ってないです。日々楽しいことやオモシロイ事を探して生きているのですが、根本的な所は「哀しみ」から成り立っているのが人間なのかなあと常々想ってたりもします。悲劇はときによっては喜劇にもなって、喜劇はときによっては悲劇にもなる。そこは紙一重。この様な事を喜劇王チャップリンが言うていたのですがまさにその通りやと思う。極端に180度違うことって分度器で言うと一直線上なので実はイコールになってたりする事が多いんではないかなと。「天才とバカ」「上手いと下手」「笑いと涙」そして「生きると死ぬ」ということもそういうことなんではないかなと思う。そこが紙一重やからこそ人ってそれぞれの自分の生きてきた道の中で「哀愁」が産まれる。その哀愁(ペーソス)が凄い感じられる人のやっている事が僕は凄い好きだったりする。ペーソスを感じるのは人それぞれだろうから、そこには統一されたものがあるとは思ってないのですが、人の魅力って常に「哀しみ」と隣り合わせにあったりするのかなと普段から思ってたりします。

人よりちょっと目立ちたがり屋で注目を浴びたくて、しごく寂しがり屋の自分の性格が音楽をする動機になっていたり、ステージで歌を唄う理由になってたりするんですけど、それとは全く逆の「内省的な自分」や「静かな自分」や「気い使いの自分」もあったりしてどちらも両立させる事は難しい。そこの中でどちらかに振り切って物事をするときに出てくる少しの「無理」やヒビが入った所にペーソスが見えるのではないかなと思うので、それはなんとか自分の心に収めてやるしかない。自分の全てを出し切るなんて個人的には無理やと思ってる。どこで割り切ってまた来る新しい1日を過ごして行くかしかない様な気がしてます。


なんか話がややこしくなってきましたね。笑。とにかく言いたかったのは良い一周忌になりましたという報告だけやったのに‥。でもヒトって単純なもんではないよなあと思ったりしたんですよね。亡くなってから親父の苦労や考え方も少しだけ分かってきた気がします。「孝行したいときに親はなし」とは本当によく言ったもんですね。

明日からは6月。また自分なりに新しいことを始めてみようと思います💫。