川口氏で尖閣諸島衝突動画のDVD282枚が置かれていたそうだ。


一人の行動によってここまで政局がうねり出すとは、よもや投稿者自身も予想していなかったのではないかと思わせる大騒動が始まった。

インターネットを発端とした騒動で投稿者名まで明かされるのは非常に稀。そして滑稽であるのは、「sengoku38」というユーザーネームが示 す意味まで多くの政治家が推測している事態。政界も市民も注目する犯人探しの行方はyoutubeを運営するgoogle社に委ねられるため、今は動画か らわかる情報を元に中国側の動機や、この騒動により起こりうる事態を懸念することの方が先決だろう。


日中外交が経済や双方の社会に与える影響は甚大なるものであるが、それを知ってのことか、どうにも右傾化したネットユーザーには反中に起因した感 情論が正当化される趣きがあるのが非常に心配だ。例えば川口駅の件に関しても、現政権にとって不都合な活動であるという一点のみから、賞賛の対象にされる傾 向がある。

力を持たぬ市民によるミクロ規模でのアクションが、勇気ある行動だと評価されてしまう風潮はいかがなものか。道端に置かれたDVDを持ち帰れば、 機に乗じた愉快犯によるウィルスなどの不安もある。正直、私がこの箱を目撃しても、積極的に持ち帰ろう、作成者を称えようという気持ちは抱かない。


が、他方で「sengoku38」氏の行動には一定の経緯を評しているのも事実。
日中関係にとって決して良い方向には進まないであろう今回の騒動だが、良い関係とは必ずしも衝突を避け続ける臆病な外交ではない。中国に依存する 日本経済の在り方を間違ったものだとは思わない。ただ、舵取りの覚束ない現政権の隙を巧みに突こうとする中国に対して、個人にでき得る最大限の抵抗を働い た氏の勇断は見事。


忘れてはならないのが、現政権は日本の国家運営を担っているということ。それは、現政権の崩落が必ずしも反政権派にとって有益となるものではないことを意味する。
然るに我々は、この騒動が現政権にとっていかなる不利益をもたらすかを考えると同時に、国家にとってどのような影響を与えるかも加味しなければならない。


歴史的にも、地政学的にも多くの難点を抱える我が国だ。近隣諸国に対しての高圧的な姿勢が、必ずしも正当な外交とは言えない点も考慮する必要がある。

まぁ、穏健右派の一個人の考えではあるが。


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久々の更新。

そろそろ冗長な長文は止めにして、簡潔明瞭な書き方を練習しようかと思う。

そういえば、夏に研修期間として勤めた内定先の企業から正式な内定通知を頂いた。
が、かれこれ1ヶ月近く(研修期間の終わりの方から今日まで)考えた結果、やっぱりお断りしようかと考えている。

その会社に不満はないし、正式に就職してからも仕事を通じて学べることはたくさんある気はしている。
ただ、あとは僕自身がどうしたいかの問題。

野心や夢とはまた違うが、ここで働くことは自分がしたいことと大きくズレているような。もちろんやりたいことだけやって生活していきたいっていう甘い考えを持っているわけじゃない。まぁ、実際はこれができる人もいるが。


久々の更新でネタがないから、mixiで書いたコラム的な日記をそのまま貼り付けようそうしよう(←手抜きw)


■以下引用
アイヌ語や奄美の方言等、日本でも数多い言語が絶滅の危機に瀕しています。

言語学では話者の規模に応じて小言語、大言語という区別を設けており、誇らしくも我が国の種種の方言は単一の言語として国際的に認められています。

地方の都市化に伴う人々の生活水準の向上によってか、興隆を維持する方言も窮めて限定的な数に減りつつあります。方言話者による、使用言語の選別が処されているといったところでしょうか。

ただ、私の考えとしては、方言の統一化には言語という地域文化の狭窄を感じ、情報化社会の無情さを覚えつつも、国家レベルでの文明的繁栄を迎合したいと願う市民感情も抱いています。


地方の都市化が一次産業や伝統文化の衰退と密接な関係を持つとして、それを都市部の人間が阻もうとするのは侵略的です。

私が願うことは、地域住民各々のアイデンティティの一つとして、言語文化の継承が自発的に行われる街作りの在り方。それはつまり、失われつつある小言語達が日本の他地域や世界に誇れる伝統的な文化の地位を確立することです。


初秋を伝える雨音から移り行く時代の声を聴き、文明の儚さに想いを馳せてみました。

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今日の日記はmixiからのコピーで済ます(笑)
別にアメブロ用にアレンジするような内容ではないし、今の自分の心境に即しているので、そのまま引用してもこのブログの趣旨に反することはないからだ。

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「ユダヤ人が金儲け以外でなぜ交渉ごとなんてするんだね?」



麻生太郎のユーモアには毎度のことながら感心させられる。

2007年に明治大学での講演で話した内容に以下のものがある。



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三年ぐらい前、総務大臣をしていたとき、外国の友人のせがれと会った。日本に来て三ヶ月だそうだが、日本で一番印象に残ったものをいってみろと訊いてみた。スシがうまいとかつまんねぇこというなよと。あんなもの金さえ払えば食えるんだから(笑)すると、しばらく考えてから、「Minister, subway, sir」っていった。「大臣、地下鉄です」と。ああ、ニューヨークは地下鉄は汚ねぇからなぁと私はすぐそう思いました。



で、地下鉄のどこがそんなに印象的だったのかと訊いたら、ここに来て、地下鉄にはじめて乗った時の印象が忘れられないと。終電に近かった。乗ったら、中で倒れている人がふたりも三人もいた。「ああ、これが噂に聞くカロウシだな」と(爆笑)。ところが、単に酔っ払って寝ているだけだと。しかし、この国では終電で夜中に酔っ払って寝ていられる、それくらい安全だと。万引きとか、蹴飛ばされるとかなく、みんな丁寧に扱ってくれる。



こんな国は考えられん。調べたらこの国では、地下鉄のなかで殺人事件が起きたことがない。ニューヨークでは週に一回ぐらいあるなと。事実日本の地下鉄で殺人が起こったのは地下鉄サリン事件以外。あれ以外日本では地下鉄で殺人はありませんから。その意味で、日本人は治安がいいということに誰一人気がついていませんから。当たり前と思ってますんで。

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首相時代にはそのユーモラスな言動も批判の対象にされた彼だが、調べてみると外相時代にこそ国際平和に向けた顕著な功績が多いことがわかる。







複雑な中東地区の政治情勢に積極的に介入し、政治的軋轢から争点を逸らして当事国の経済的利害を軸に交渉を進めた点は実に見事。





動画4:38から。2009年のダボスで行われた世界経済フォーラムでの一幕。



「私には信念があります。Peace and Happiness through Economic prosperity and Democracy(経済的繁栄と民主主義を希求する先に、平和と人々の幸福がある)」



麻生さんが実現しようとしていた日本の理想の姿が量れる信念だ。







彼の演説には日本国民として心打たれるものが数多い。引用が中心の日記になるが、お次は2008年9月29日の内閣総理大臣就任当初に行われた、所信表明演説での冒頭の挨拶。個人的にはこの一文が一番好きで、最近は電車の中や大学内でも何度も聴いている。



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わたくし麻生太郎、この度、国権の最高機関による指名、かしこくも、御名御璽をいただき、第九二代内閣総理大臣に就任いたしました。



わたしの前に、五八人の総理が列しておいでです。一一八年になんなんとする、憲政の大河があります。新総理の任命を、憲法上の手続にのっとって続けてきた、統治の伝統があり、日本人の、苦難と幸福、哀しみと喜び、あたかもあざなえる縄の如き、連綿たる集積があるのであります。



その末端に連なる今この時、わたしは、担わんとする責任の重さに、うたた厳粛たらざるを得ません。





この言葉よ、届けと念じます。ともすれば、元気を失いがちなお年寄り、若者、いや全国民の皆さん方のもとに。





申し上げます。日本は、強くあらねばなりません。強い日本とは、難局に臨んで動じず、むしろこれを好機として、一層の飛躍を成し遂げる国であります。



日本は、明るくなければなりません。幕末、我が国を訪れた外国人という外国人が、驚嘆とともに書きつけた記録の数々を通じて、わたしども日本人とは、決して豊かでないにもかかわらず、実によく笑い、微笑む国民だったことを知っています。この性質は、今に脈々受け継がれているはずであります。蘇らせなくてはなりません。



日本国と日本国民の行く末に、平和と安全を。人々の暮らしに、落ち着きと希望を。そして子どもたちの未来に、夢を。わたしは、これらをもたらし、盤石のものとすることに本務があると深く肝に銘じ、内閣総理大臣の職務に、一身をなげうって邁進する所存であります。





わたしは、悲観しません。

わたしは、日本と日本人の底力に、一点の疑問も抱いたことがありません。





時代は、内外の政治と経済において、その変化に奔流の勢いを呈するが如くであります。しかし、わたしは、変化を乗り切って大きく脱皮する日本人の力を、どこまでも信じて疑いません。そしてわたしは、決して逃げません。



わたしは、自由民主党と公明党の連立政権の基盤に立ち、責任と実行力ある政治を行うことを、国民の皆様にお誓いします。

===



「国民の皆さんのために」は政治家の常套句だが、国民に奮起を促す首相は珍しいんじゃないか。日頃は「日本のために」なんて考えて生きることはほぼない僕でも、この演説を聴けばなにかしなくちゃという気にさせられる。日本人として生まれたことを誇りに思える。





最後に引用するのは、僕が個人的に書き留めた手記の一文。晒すのはちょっと恥ずかしいが、僕のオプティミズムの信仰に確信を与える契機ともなったダボスでの麻生さんの発言だ。





《以下引用・前略》



尤も、それが当たり前になるくらい同一評価を受け続けてきた僕としては、最近じゃ今の楽観主義を持ち続けざるべきかを悩むのは必然だ。



そんな自問に一筋の光が差し込んだ。2009年2月、時の麻生太郎前首相がダボスで行われた国際会議にて行った演説の締めの一言に、その答えは存在していた。



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2009年が重苦しい幕開けとなったことは認めざるをえません。しかし、我々は、この挑戦を奇貨と

して、より良い世界を創り上げていく、強靱さ、しぶとさ、そして楽観性を持つべきです。

(中略)

フランスの哲学者アランは、「悲観主義は気分のものであり、楽観主義は意志のものである。」と

述べました。意志ある者が、難局を克服する、この確信を述べ、演説を締めくくりたいと思います。 (引用終わり)

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そう、またしてもアランの言葉だ。



なんて力強く、深みのある言葉なんだろう。きっとこれは、楽観主義を知らない人には決してわからない概念だ。



そう、楽観主義とは、悲観という感情的沈降に打ち勝った者だけが到達でき得る「信条の極地」に違いない。僕はこれまでも幾多の悲観を経験してきたが、それは僕の足を引っ張るマイナス要因でしかなかった。対称に、楽観はこれまでの僕の逆境を支え、僕の成長を助けてくれた。



《引用終わり》





今でも思うのは、自民党政権というより、麻生政権がもっと長く続いていればよかったということ。日本国民の幸福と世界平和の在り方をここまで明確に標していた首相を失ってしまったことが、いったいどれほどのデメリットになろうものか。この日記は他党の批判をするためのものではないが、現行の政権にそれができるかと考えれば、なかなか難しい話だと思う。





そういえば、もうすぐ参院選だ。日本の参院選で採用されている非拘束名簿式比例代表制は、自民党から派生した政党が溢れていて、今まで以上に個々の政治観に合わせた投票先を選びやすくなっている現状に適していると考えることもできる。(タレント議員の氾濫などによる弊害もあるが)



麻生さん一人のために自民党に投票、という選択が最適だとも言い難い複雑な内政情勢があるからこそ、政党規模を問わず自分自身の本音と向き合って支持政党を吟味していきたいと思う。