あの日、エーイチからの電話は、いつもと少しだけ違っていた。
声の調子でも、言葉の選び方でもない。
ただ、胸の奥に小さな違和感が灯った。
それが何なのかは、まだわからなかった。
エーイチより電話。
「明日なんだけどさ、会えるか」
"会えるか"だって…。
エーイチのそんな言い方は初めての事だ。
「だ、大丈夫だよ、なんもねぇし」
本当は用事があったんだけど、いつもと違う妙な違和感を感じ、とっさにOKした。
「んじゃ、明日、7時に津田沼で」
電話を切ると妙な胸騒ぎを覚えた。
翌日、津田沼で合流。
「急に悪かったな、今日はちょっと遠くなんだけど時間大丈夫か」
「急に悪いね」
だって…。
やはり何か様子がおかしい。
いつものように
キオスクで缶ビールと缶酎ハイを3本買ってもらい総武線に乗り込んだ。
何かを言いたそうなエーイチだったが、
何を言われるのか不安で俺の方から別の話題を切り出した。
「あのさ、10月25日なんだけど空いてるか、
最近知り合ったパンク小僧のライブに誘われててさ、お前も来ないか」
「10月か、10月はちょっと無理なんだよな」
「そっか、んじゃまた都合のいい時にいくべ」
理由も言わずにただ"無理だ"と言うエーイチ、
何か不安でそれ以上は聞くことができず、うやむやに会話は途切れた。
一体この嫌な感じは何だろう。
結局"無理"の理由は何も聞けぬまま、そしてエーイチも語らぬまま四ツ谷駅に到着した。
そこからライブハウスまで徒歩10分ほど、歩きながらのたわいない会話にも不安が募る。
「今日はアッキョやタケシはどうしたんだよ」
「アッキョは仕事じゃねぇか、タケシの野郎はよ、
あいつ感が良くてさ、実は今日はシャンソンの大先生のライブなんだけどさ、
こないだの市川やヒッチコックですっかり懲りちゃったらしくてさ、
感づいたみたいでよ、来るの嫌がるんだよ」
「何だよ、シャンソンの大先生ってのはよ!?
そりゃタケシ嫌がるわな、わはは」
そんな軽口を叩きながらも、
内心では
「タケシ、感が悪いよ。この違和感、なんか感じなかったのかよ」
そう思っていた。
ライブハウス「蟻ん子」に到着すると、
モーホーさんっぽいスーツ姿のオジサマと、
薔薇柄シャツのオニイサマが店内へ案内してくれた。
あ・や・し・い・危険な雰囲気ムンムン。
「わはははは、こりゃタケシ連れて来なくて正解だよ。
来てたら絶対逃げ出してるわな」
そんな軽口を叩いて笑っていると、
シャンソンの大先生が登場。
「あらエーちゃん、ありがとー、嬉しいわ。年末のライブもよろしくね」
「えー、それが、年末は行けそうになくて…今日はお詫びに来ました」
「まあ残念。また来年もあるからよろしくね」
「はい。もしかしたら暫く来れなくなるかもしれないんですけど、
またきっと来ますから」
「怪しいなー、浮気してんじゃないのー。また来てちょうだいね」
一見たわいない会話だったが、
俺の胸の不安はますます大きくなった。
まーそれはそうとして、
いつもながらエーイチの交友関係には驚かされる。
この大先生との出会いも偶然で、
たまたま居合わせた飲み屋で大先生たちの会話を耳にし、
シャンソン歌手だと気づいたエーイチが
酔った勢いで声をかけ、
その場でサン・トワ・マミーを歌ったのがきっかけで
意気投合したというのだから笑える。
やはりエーイチは天才だ。
ライブの様子は長くなるし、本題から外れるので省略。

ライブが終わり、店を出る。
歩きながらエーイチはぽつりと口を開いた。
「腹減らねーか!? ラーメンでも食いてーなー」
「ああ、いいよ」
「ラーメンも暫く食えなくなるんでさー」
「ん……?」
「実はさ、俺さ、癌が見つかったんだ……」
「え……(絶句)」
歩きながら、そしてラーメン屋で、
エーイチは驚くほど冷静に淡々と語り出した。
自分が食道癌であること。
これまでの経緯。
これからのこと。
親父が癌で亡くなったこと。
3年前に妹まで癌で亡くなっていたこと。
初めて聞く話ばかりだった。
「でもよー、自分でもビックリするほどサバサバしてたんだよ。
親父や妹のこと見てきたからよ、
いつかは俺もこうなるって思ってたんだ。
人間さ、死ぬときゃ死ぬんだし、ジタバタしたってしょうがねーし」
「なに言ってんだよ、治るって。大丈夫だって」
「いや、だけどな。最初は“死ぬのかな”なんて思ったんだけどよ、
医者の話とか聞いてるとさ……恥ずかしいけどさ、
俺、頑張ろうって思ったんだよ。
生きてナンボだよな。今はジタバタしてやろうって思ってんだ」
明後日には精密検査の結果が出るらしい。
悪性じゃなければ、転移がなければ手術が可能で、
術後5年の生存率は70パーセントくらいだと言っていた。
そんな不安を抱えているのに、
いつもと変わらぬ呑みっぷり。
〆にはラーメン。
でもそれは上辺だけの空元気。
冷静を装っているが、内心は不安でいっぱいなんだろう。
怖いんだろう。
そう思うと、なんて声をかけたらいいのかわからなかった。
帰りの電車の中、
俺はずっと寝たふりをしていた。
口を開けば涙が出そうだったから。
やがて電車は船橋駅に着いた。
俺は京成線に乗り換えるために立ち上がる。
すると幕張まで行くはずのエーイチも立ち上がった。
「この電車どうせ津田沼止まりだから、俺もここで乗り換えるわ」
ウソだとわかっていたが、
俺は知らんふりして「そっか」とうなづいた。
ホームに出るとエーイチが言った。
「今日は悪かったな」
「悪くなんてねーさ。教えてくれてありがとな」
何が”ありがと”なのかわからない。
でも、そんな言葉しか出てこなかった。
とっさに言った。
「検査の結果とか入院の日程とか決まったらまた教えてくれよ。
見舞いぐらい行きたいしよ」
「見舞いなんていらねーよ。絶対復活するから。
したらまた誘うからさ、待っててくれればいーよ」
そう言うと、くるりと背を向け、
小さく右手を上げて、
入線してきた電車に乗り込んでいった。
それがエーイチの強い意志だと思った。
「待ってるさ。帰ってこいよ」
電車に乗り込むエーイチの背中にそう呟いたとたん、
涙が溢れてきた。

