エーイチが退院してから、まだ本調子には程遠かった頃の話だ。
それでもあいつは、少しずつ、ほんの少しずつ“日常”を取り戻そうとしていた。
ビールを一口だけ飲んで唸り、ライブに挑戦しては苦しそうに立ち止まる。
無理をしているのはわかるのに、どこか嬉しそうだった。
あの夜のエーイチは、弱さと強さが同居した、実にあいつらしい姿だった。
エーイチが退院してから数週間、突然電話がきた。
「ちょっと会えねえか」
幕張で落ち合い、いつものように居酒屋に入った。
退院したばかりの男が、いきなりビールを頼む。
「おいおい……大丈夫かよ」
そう思う間もなく、エーイチは恐る恐るジョッキを手に取った。
一口だけ、ほんの一口だけ飲んだ瞬間、顔をしかめて唸った。
「……ちょっとまだ早かったわ」
食道を切除して、胃と口を直結している身体。
ビールが喉元まで逆流してくるような感覚らしい。
その日は一口チャレンジで終了。
それでもエーイチは、どこか嬉しそうだった。
“ビールに挑戦できるところまで戻ってきた”
その事実が、あいつには何よりの喜びだったんだろう。
数週間後、また突然の電話。
「明日、7時に千葉に来れるか。お前に見せたいライブがあるんだよ」
声に張りが戻っていた。
あの一口で唸っていたエーイチとは別人のようだった。
翌日、言われた通り千葉へ向かった。
連れて行かれたのは、本千葉のライブハウス「ジャム」。
出演は“瘋癲野郎”。
「瘋癲野郎ってんだけどさ、前に偶然、稲毛の野音で見かけてさ。
ほんと面白いバンドなんだよ。お前も気にいると思うぞ」
エーイチは嬉しそうに説明してくれた。
開演まで時間があったので、エーイチはまたビールに挑戦していた。
「一口飲んでさ、逆流してきそうになるのを、軽くツマミを一口食べて蓋をするんだよ。
すこしずつ、ゆっくり。こんなコップ一杯飲むのに30分くらいかかるんだ」
顔をしかめながらビールを口にするエーイチ。
それでも、どこか嬉しそうだった。
そんなこんなで瘋癲野郎のライブが始まった。
後で聞いた話だが、普段の瘋癲野郎は奇抜なメイクに派手な衣装、
ステージを飛び跳ねるようなライブが売りらしい。
画像は別の日のもの、普段は下のパネルの姿でやってる(2014.8.25 撮影)
だが、この日のジャムでは違った。
メイクも無し、衣装も無し、普段着のまま。
淡々と演奏し、淡々と歌う。
それがまた、妙に良かった。
エーイチの言う通り、すごくいい。
エンターティナーだ。
MCも絶妙で、客席とのやり取りも軽妙で、
とにかく楽しい連中だった。
気づけば俺は、すっかりお気に入りになっていた。
この夜をきっかけに、俺は何度もジャムに通うことになる。
画像は別の日のもの(2011.7.22 撮影)
ライブが終わり、本千葉ジャムから千葉駅までの道を歩いていた。
15分ほどの距離だが、エーイチは途中で急に立ち止まり、
そのまま歩道にしゃがみ込んだ。
「うーーーん……ちょっと無理しすぎた。
苦しくて動けないんだ。暫くここで座ってるわ。
お前は先に帰っていいぞ。心配いらねえ。
じっとしてればよくなるの、わかってるから」
息が荒く、顔は苦しそうだった。
それでも俺に背中を見せたまま、強がる。
付き合おうとすると、振り返らずに言った。
「いいから。大丈夫だ。先帰れよ」
辛そうな姿を見られたくなかったんだろう。
あいつらしい意地だ。
仕方なく、俺はその場を離れた。
背中を振り返るたびに胸がざわついたが、
あいつの“強がり”を信じるしかなかった。
翌日、律儀に電話がきた。
「あのあとちゃんと帰れたから大丈夫だ。
心配かけて悪かったな」
その声を聞いて、ようやく胸のつかえが下りた。
実にエーイチらしい夜だった。
ライブはそっちのけでお客の女性をナンパする俺(2011.7.22 撮影)


