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   sunrise*

        嫌でも明日はやってくる。静かな気持ちで今日もゆく。


夕食を食べているとき、ガチ恋オタクの話になった。

先日、小学校の同窓生、Mちゃんのことをふと思い出した。
彼女は女優として活躍していたらしい(いまは知らない)。
高校生のころ、気になって彼女の実名でググってみたことがある。
すると、熱心な彼女のファンがブログを書いていた。
そのことを、ふと思い出したのである。

あまり名の知られていなかった様子の彼女にも熱心なファンがついていて、そのファンはきっと、心の底から応援していたんだと思う。

だけど彼は、彼がそれを望んでいるかどうかは別としても、Mちゃんと個人的に会ったり一緒にご飯食べたりすることはできない。

一方僕は同窓生だし、別に彼女に興味なんかなくても、一緒にご飯を食べようと思ったら食べられるだろうし、連絡を取ろうと思ったら数時間も経たずにラインを手に入れられる。

整理するとこうだ。

世の中には、3種類の人間がいる。

1. 努力しなくてもメディアの向こう側の人間と接触できる人。

2. 努力すれば接触できる人。

3. どんなに頑張っても接触できない人。

これは千菅さんについても言える。
千菅さんの場合、望んでいるか否かは別問題として、僕は3に分類される人間だ。
だけど当然1に分類される人は結構いる。
それってなんだか、当たり前だけど不思議なこと。

もし千菅さんとのつながりがメディアを介するものしかない人で、どうしても千菅さんと接触したい人がいて、天地がひっくり返るほど努力を積み重ねてるとしても、その努力が報われることは永遠にないし、努力しないでその権利を、別にいらないけど持ってる人がいる。

かわいそうだけど、触れられそうに見えて、絶対的な隔絶がある。その隔絶の向こう側には、オタクよりも彼女のことを分かってなくて、大切にも思ってない人がたくさんいる。

という話をした。

そうしたら。

そんなこと考えながらオタクやってるんだね。
3周くらい回って頭おかしくなっちゃったんだね。

と、言われた。
20日、千菅さんが客演として出る2公演を観た。
以下内容に関する感想と考察。

まず登場人物をおさらいすると・・・

ぼく:主人公。視座。
ケンジ:幼少期の主人公。

母:父と離婚したのちケンジと暮らす。イラストレーター。再婚の意思は不明。
父:母と離婚後一人で童話を書く。離婚以降自発的な意思が見られない。
カオル:出版社の女性。父が好き。

コーキチ:ケンジの家庭教師。
サコ先輩:コーキチの先輩。
アベ:ケンジが好きな女の子。

視座は「ぼく」にある。
大人ならともかく、21やそこらの「ぼく」の10年前の記憶が鮮明であるとは思えない。同時に、ケンジの経験した内容と、その結末について、受け止め方は極めて感情に左右されるものであった。
よって、ケンジをはじめ、全ての登場人物は当時のケンジが受けた印象そのものではなく、10年経って美化されたものである。さらに付け加えるならば「ぼく」が10年間という明らかに異常な期間、カオルさんの自宅に電話し続けたことを考えると、そこにあるのは自責の念であり、贖罪として当時の記憶を自虐的に、周囲の人間により善性を与えていると考えていい。


1. ケンジはなぜ父親の再婚を嫌がったのか
ケンジは自分の母親のことを「まわりの父親がいる子たちに負けさせたくないが為に教育に力を入れている」と評価していたが、その根底に「自分には父親がいないし、そのことは自分にとってマイナスなことだ」という理解がある。
このマイナスを打ち消す最も簡単な方法は、父親と母親が再婚することだ。
だから月1の「面会」はその望みをつなぐ唯一の道だった。

父親の家に行ったとき、そこで父親が料理をしていることを知ったとき、ケンジは「自分の為に父親が不慣れなことをしてくれている=自分を愛しているが故の行動」と捉えた。しかしカオルが奥から現れた。ここでケンジは「ボートに乗りに行くこと=自分の望みを叶えない父親の料理の目的が自分にあるのではなく、自分は料理のための手段にすぎない=カオルの方が父親にとって優先度が高い」ことを理解した。
ここでケンジにとって父親は急に遠い存在となったことだろう。自分より優先度の高い相手を見出した父親に見捨てられる、忘れられると恐怖したかもしれない。

父親の「ケンジが良しとすれば」というスタンスはケンジを「自分がわがままを言えば父親は幸せにならない」「父親が遠い存在となって欲しくない」という相反する思考の板挟みにさせただけだ。
結局一度も父親はカオルへの好意を口にしなかった。このこともケンジに母親との再婚の可能性を感じさせ、より悩ませた要因になっただろう。


2. ケンジは一人になりたい
父親のあまりにもヘタレな態度を受けてケンジはありもしない理想(コーキチくんやアベさんまでもが同じ家に住む)を追いかけることになる。その理想を自ら否定したケンジが「ぼくのカヌーは1人しか乗れない」と言った裏には、誰に頼ることもなく自立したいという思いがあったのではないか。セコ先輩に「最初はカナディアンカヌーだな」と言われて反対したところにも、他力に頼りたくないという意思が表れている。誰かに頼りきりの父親を見て嫌悪した結果なのかもしれない。
僕は一人になりたいんだと連呼していたケンジは物語の終盤、一人でボートに乗って神田川をくだる。このとき携帯電話…電波を通じて、関わりのあった人々と話し、そして彼らとの「繋がりを切っていく」。この描写はまさにケンジが自立していく様を表しているとはいえないだろうか。

カヌーに一人で乗ること。周囲に依存しないこと。
それは、コーキチに対するあこがれ、同一視なのかもしれない。
食費や自分の行動を誰に縛られることもなく自由にきめるコーキチの姿は、きっと色々なものに縛られたケンジにとっては羨望の対象だったと思われる。


3.そしてみんな不幸になる
この物語で救われたものは一人としていない。

カオルさんは手ひどく失恋した。もう父親の童話の担当も辞めるだろうし、あれだけ好きだった童話そのものも嫌悪の対象となったかもしれない。酸っぱい葡萄なのだ。相手と自分の類似点、相違点をわかったうえで、それ以外の要素により阻まれるのだから当然だろう。

父親は再婚のチャンスを逃した。自分が愛した女性とは離婚し、自分を愛した女性とも幸せになれず、恋愛そのものに忌避感を覚えたかもしれない。

母親は、離れて暮らす父親に再婚相手が浮上しただけで情緒不安定となった息子を見て、あるいは完全に再婚を諦めるかもしれない。ケンジが不安定になったのは、いまでも遠い存在の父親が、完全に自分の手の届かないところへ行ってしまうことを嫌ったためかも知れないが。

ケンジは父親も母親もカオルさんも、結局は自分のワガママで傷つけたという事実に、以降10年間も心を折られる。ケンジが一人になりたかった本当の理由は「自分のワガママで大人が幸せを逃す」という責任感の重さに耐えられないがための逃避ともいえよう。しかしそれはどだい無理な逃避行なのだ。全員がケンジを愛しているがゆえに。

コーキチ、サコ先輩に関しては、この事件を通して幸福にも不幸にもならない。
アベさんに関してはケンジのどこに好意を寄せているのかが不明なため言及しない。


4. 果たしてケンジは事件以降カヌーに乗るか
多分乗らなくなったのではないだろうか。
そう考えるには3つの理由がある。

1つ。
これは根拠として弱いが・・・
健全にスポーツに取り組んでいる青年が、10年も同じ家に電話をかけ続けるような、そんな心の病んだ所業をするだろうか。スポーツから離れ、むしろ小学生の時分の快活さを失ったからこそ、そのような状態になっていると考えるのが自然だろう。

2つ。
カヌーはケンジにとってこの事件と直結した存在だ。
カヌーに乗ることは、神田川を下ることを思い出させるだろうし、ケンジがその心の傷を克服できたとは考えにくい。なぜなら10年後も自分の行動を悔いて電話をかけ続けているのだから。

3つ。
ケンジは最終的に、カオルさんを肯定した自分とボートとに「背を向けて去っていく」。
これ以上にカヌーとの決別を表しているものもないだろう。
最後の場面に関して、ケンジは帽子をもその場に置いて去っていく。
これはそのままキャップ=限界点を開放した、ケンジが成長したことを表す。
して、成長したケンジの向かう先はどこなのか。
少年期ケンジの象徴たる帽子が時の砂の流れを止め続けるとはどういう意味なのか。


5. ぼくとは誰なのか。
端的に言って、ぼくとはケンジの自我が崩壊し、最後に残った残渣のようなものではないのか。
常識的に考えて10年間も同じ番号にかけ続けて、いまだ応答がないということは、相手は出ていないし、番号の持ち主が別になったとしても着信拒否されているの、あるいはもう使われていないということだ。つまりぼくは電話をかけているつもり、コールはなっているつもりだが、実際のところは「ツー・ツー」という接続失敗を伝える音か、その番号が使われていない旨のアナウンスが流れているはずだ。それにもかかわらず電話をかけ続けているというのは、もう気が狂れているとしか考えようがない。

現実を正常に認識できなくなったケンジを客観的に見守るケンジ。それがぼくの正体だと思う。


6. 結論
ケンジが成長したところまでを描写したところで物語は終わる。
最後に電話が繋がるが、実際には10年前のカオルに電話が繋がるなんてことはない。
つまりはぼくの妄想。そうであって欲しかったという後悔の念。
妄想と回想に依存して現実に帰ってこられない男の、終わりなき精神世界の物語。
ちょっとした感動モノのように見えて、じつはかなり凄惨な物語なのではないかと、僕は考えている。

一人称の死、二人称の死、三人称の死。

一人称の死とは自分の死。
最もなにも感じないもの。感じることが不可能なもの。

二人称の死とは情が湧く相手の死。
血縁関係にあるもの、旧い友人、愛玩動物の死。
もっとも悲しいもの。もっとも恐れるもの。何度も訪れるもの。

三人称の死とは、客観的な死。
テレビの向こう側の死。見知らぬ人の死。なにも感じない。
(人身事故で電車のダイヤに影響が出たとき、死んだ人を悼むだろうか?)

これだけじゃない。

たとえば、一人称と二人称の狭間の死。
自分という存在が死んだ存在に依存したものであったならば、それは二人称とも一人称ともいえないものかもしれない。

たとえば、二人称と三人称の狭間の死。
目の前で人が死んだ場合。それがたとえ見知らぬ人であっても、恐怖や、悲しみといった、二人称の死に関連する感情がうずまき、しかしそれほど引きずることはない。

仮に前者を「第四の死」、後者を「第五の死」と分類する。

ぼくは、第五の死を経験しすぎている。
目の前で失われた命、消えていった命、失われている命。
第五の死の積分値は三人称の死であり、二人称の死すら三人称の死に近づいてしまう。

同時に、死のメカニズムを理解すればするほど、死はただの現象になる。

結局、違うところに立たざるを得ないのだ。
どうしても。

その乖離が、もどかしい。

沈黙を破ろうとすれば、即ち雄弁に語るほかない。
べらぼうに、不必要に、冗長に、長々と、語り尽くさねばならぬ。

伝えたいことを伝えずして伝えるこの矛盾した作業は。
矛盾しているがゆえに意味が無い。
当然。

そうだと知っていても書かなくてはならない。
と、思ったことだけわかれば、それでいい。

結局、特にどうということでもないのだ。


夜。

じりじりと過ぎ行く時間。

窓の外では月がゆっくりと昇っていく。

とても綺麗。

こういう時間もたまにはいい。

穏やかな気持ちで、やがて眠る。

月は昇っていく。

ふわり。

疲れた、という言葉は、ひとりごとでしか言わないようにしている。

自分が疲れているとき、そのような時間帯、他の人も疲れているからである。

同様に、自分がなにか考えているとき、他の人はなにか考えている。

人はみな、だいたい似たようなものなのである。

だから、自らが賢いと自惚れるようなことなく、人の行いからその心理心情を自らに当てはめて考えてみることが大切なのである。

そして、考えるときにはその背景が重要となる。これは非常に大切なことである。

どのようなコンテクストがあって、どういう考えに結びついたのか。なら自分は、どういう前提でその人の行動を見なければならないのか。

そのようなことを考えなくてはならない。

個を主張する未熟さを、捨てなければならない。
今日はひねもす寝ていた。
でも喉の不快感は取れることがなかった。
一日を無駄にしてしまったかのような気分。

そんなときに限って父親の無神経さが際立ったりして、少し苛立った。

ぶすっとした顔で、少し外にでる、なんて唸る僕を見て父さんも面白くなさそうだった。
すれ違い。

ま、明日には忘れたことにして普段通り過ごそう。
父さんが自分の無神経さを自覚するような人だったら、そもそも無神経ではないのだ。
ならば、僕が折れるしかない。

僕はオトナだなあ。




とりあえず外に出たもののすることがなかったので、本屋に行って適当に本を見繕った。
欲しかった夢野久作のドグラ・マグラも手に入ったし、外に出たのは正解だったのかもしれない。
そのまま家に帰るのも味気ないので、カフェに入った。
それで閉店時間まで本を読んでたんだから、家に帰っても変わらなかったかもね。
気分の問題かな。

本を読んでいて思ったこと。
小説を書くためには、まず知識がいる。
物語のテーマやキーワード、トリックなど、様々なところに必要な知識がなければ小説は書けない。
知識があっても、文章の組み立て方を知らなければどうにもならない。
同じ表現の使い回しは興ざめだし、文法的な間違いなども気になる。
それから、結局その文章を通して何が言いたいのか、という解答を考える必要がある。

もともと主人公はこう考えていた、という「起」。
だからどう行動した、考えた、という「承」。
でも、失敗や成功や誰かの助言など、なにかしらの要因によって生まれる「転」。
結論、結末、最終的にどう落ち着いたのかを語る「結」。

主人公の思想が移ろう物語ならこういう骨子が必要となる。

知識を使って、あるいは吟味して、そこから智慧を生み出し、文章とする。
小説はそうやって作られる。

そして筆者の生み出した智慧は、読者の知識となる。
こういうものの捉え方があるんだ、という知識。
デカルトは哲学のなんたるかを考えて小部屋に何年もこもったというけれど、所詮いくら考えても他人の考えを思いつくことなんてできない。
自分には自分の考えしか思いつかないから。
だから、本を読む。
人の考え方を知る。
そうやって自分の尺度を広げる。
そうして智慧をつける。

文章をめぐる循環は美しい。




で、ついさっき起きた話。
千菅さんのブログにコメントした。
パッと書いて投稿して、反映されたものを読み返してみたら、まるで他人が書いたかと思うほどの別解釈が生まれた。
すごく傲慢な人だな、という印象を、自分の文章から受けた。
同じ文章でも受け取り手によって受け取り方は異なる、なんて、そんな当たり前のこと。
どうして忘れていたんだろう。
できるだけ誤解のないように文書を書くことは、基本中の基本だというのに。
自分のための弁明というか、せめて今回の件について明るく捉えようとするなら、
自分の文章・考え方であっても、一度自分の手元から離して、そうしてからもう一度吟味すると、再評価は可能となる、ということになる。
自分が伝えたいことを、どうしたらもっとも齟齬の生まれない形で相手に伝えられるのか。
よく考える必要がある。
そういう思慮深さの足りない僕は、やっぱりコドモだなあ。