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   sunrise*

        嫌でも明日はやってくる。静かな気持ちで今日もゆく。

既知の仲だとして、いったいどれほどの無礼が許されるだろうか。

無礼が許される可能性を考慮すること自体がすでに、どうしようもなく無礼なことではないだろうか。

相手を目的とし、尊重するのであれば、普遍的に蛮行、あるいはその意志は許容され得ない。

礼を欠くということは、言いようもなく度しがたい。

慢心や慣れは失礼の温床である。

己の意志の格率が普遍的立法に妥当しうるか。

その検討を忘れてはならない。
子どもと大人の差はなにか。

僕の中ではとっくに答えの出ている議論であり、つまり、判断力の有無こそ、大人子どもを判定する基準である。

そう思っていたのだが、最近はまた少し考え方が変わってきた。

情報は鮮度である、という普遍的真理があるが、これに即して考えるならば、判断力を得た時点がいつであるかが論点であるべきで、それが実年齡と関連している必要はない。

つまり、未熟かそうでないかという判断を、大人、子どもで表現するのは適切ではない。

考えの変容というよりは、より正確に捉えられるようになったということになるか。

誰しもに求められる社会的判断能力という集合に属するものごとに関して、子どもじゃないんだからという寛容的表現は看過しうるが、そも、誰しもが持ちうる社会的判断能力というものの規定が判然としない。

しかるに、子どもじみているか、大人びているか、それに関しては黙し、そのうえで意志そのものを評価するのがよいと考える。
もやもやする。

ここ数年感じてきたことを、ここ数日強く感じている。

知識がなければ世の理は解せない。

世に生きていながらにして、自分がいる世界がわからないというのは、考えずとも非常に恐ろしいことである。

わからなくてもそうであればよい、という考えを実証主義的立場から否定するものではない。

むしろ。

自分はわからないことがわかっていながら、無知の知を得ながら、知を得ようとはしていない。

恐ろしいことだと思いながら、あえて恐ろしさのうちから脱却を試みていない。

それが不気味で、不快で、どうしようもない。

堂々巡りなのだ。

知らざるは愚か者のすることなれど、知ろうにも手がかりはなく、かといって全てを教えてもらうこともまた愚か者のすることなれば。

時間の制約のなかにこのぐるぐるは解決され得ない。

己の愚かさにただ、もやもやするだけなのである。


 

最近、漠然と生きている。

 

よくないことである。

 

ゲームについて、勉強について、あるいは麻雀の牌効率について考えるのと同じように、人生のそのものの時間高率および利用価値を高めなければならない。

 

その時やるべきこと。

その日やるべきこと。

その週やるべきこと。

その月やるべきこと。

その年やるべきこと。

あるいは、さらに長期的な時間単位内にてやるべきこと。

 

いくつかのものは重複し、競合するかもしれない。

そういうものの優先度を吟味する時間は、時間のあるときにこそ重要となってくる。

つまり、ただ漫然と消費するだけの平日を省みるならば、まずはそこからである。

 

具体的にやりたいことを挙げよう。

 

今やるべきこと

 時間が深くなる前に寝ること

今日やるべきこと

 特になし

今週やるべきこと

 実習報告会に向けてのスライドづくり

今月やるべきこと

 実習の感想文作成

今年やるべきこと

 共通試験および模試に対する勉強

 後期科目に対する勉強

 研究報告会に向けたポスター作成

 

やりたいこと

 千菅さんへのファンレター作成(優先度:10)

 ゲーム各種(優先度:1)

 麻雀で強くなること(優先度:4)

 痩せること(優先度:5)

 シェイプアップすること(優先度:4)

 部屋からものを減らし、恒常的に清潔な居住環境を目指すこと(優先度:7)

 

 

さて、当然やるべきことはやりたいことよりも優先して終わらせてしまう、あるいは継続させるべきだ。それらの目処が立ってから、やりたいことにも序列をつけ(つけた)、あるいは着手するための時間調整を行い実行すべきだ。

 

わかっているなら、後は実行に移すだけ。

やるのだ。


メンタルが弱い。

いい悪いで判断できないことは世の中に多々あれど、メンタルが弱いことは普遍的に欠点であり悪である。

世界の変化に常に適切に自らを適応させていくことこそ生命に定められた命題であるからだ。

メンタルが弱いということは、現実の変更不可能な事象に対して対応できないということ。

そんなことではいけないのだ。

失敗しても、困窮の極地を目の当たりにしても、それでつまづいたように感じたとしても、前に前に進まなくてはならないのだ。

倒れるにしても前のめりに。

キツくても、届かなくても。

歯を食いしばって次の一歩を踏み出そうとする心意気が肝要なのである。

失敗を恐れるな。

失敗なき成功の理想を捨てさりたまえ。

常に強者たれ。

お昼のこと。

顔は好みだけど一生過ごしていくことは考えられないA子ちゃん

顔はそんなでもないけど一生過ごしていくことができそうなB子ちゃん

どっちと付き合う?という話になった。

友人はB子を選択。

僕もB子のほうが好ましい。

だが。

いつかは顔もタイプでずっとうまくやっていけそうな、ハイブリットC子ちゃんと出会うかもしれないわけで。

そうなるとB子という選択は、そもそも好みじゃないことからも比較的良案だったことからもわかるように、なくなる。
というかC子に鞍替え待ったなしだ。

B子に落ち着くのか、C子を追い求めるのか。

C子は一見完璧だが、B子にはかなわない点がある。
それがいままでの情報共有量。

人の仲の良し悪しなんてものは、情報共有量の多寡で決まる。
どれだけC子がいい子でも、B子と同程度の信頼関係を築くのはそれなりに大変なのだ。

その労力に本当にC子は見合うのか。

そもそもC子は自分の手の届く範囲内にいるのか。

未知であるだけに判断が難しい。

いっそのこと考えるのをやめて盲信的に好きだと断言してしまいたい。

そうできる人が羨ましい。

俺にはお前しかいねえっ

なんて薄っぺらい言葉を、本気で信じて口にしてみたい。

したくないけど。

時間が過ぎてゆく。

当初の予定が大幅に狂っていることがわかっていながらも代替案すら考案することなくダラダラと過ごしている。

目的なく生きていても仕方ない。

日々を充実させるためにも目標をきちっと決めなくてはならない。


心が感動を欲している。

充足感といったほうが正しいか。

感情の動かない毎日は過ごすのも息苦しい。

できれば、楽しいこと、嬉しいことで心を動かしたい。

そうして効率をあげていければいい。

見方を変えるというのは大変なことである。

いや、そうでもないのかもしれない。
見方を変えれば。

それができないことこそ、自分の最大の欠点だと思う。だから大変だと思いたいのだ。己の劣っていることを正当化するために。

そんな自虐はさておき。

こうして数行のうちに見解がめまぐるしく変わっていったように、見方というのは、いままで含めていなかったなんらかの要素を考慮に入れると、それが単純なことにしろそれでないにしろ、あっさり覆ってしまう。

それはなかなかに恐ろしいことだ。
見落としたものが真実に関与する可能性を考えておかなければならないからだ。

そう、真実というものは確かに存在するのだ。
真実は事実の集積である。
よって事実がすなわち真実とは限らない。
だから事実を取捨選択してはいけないし、得た事実が全てなのか知らないうちに結論を出してはいけない。

いかに真実に即した結論を導けるか。
それが判断力というものだ。
判断力のないものは、饒舌であってはならない。

語りえぬものについては沈黙せねばならない。

本来ヴィトゲンシュタインの言わんとした趣旨とは異なるが。

自分には、人をむやみに見下す悪癖がある。
思慮深さに欠けるためだ。
真実の一側面のみを観察し、我が意を得たりとばかりにしたり顔をするのは馬鹿のやることだ。
つまり自分は、馬鹿どもを馬鹿にすることによって自らをもまた馬鹿たらしめている馬鹿なのだ。

わかっていて。
性格というのは、むべなるかな、一朝一夕には変わらないのである。

それが最近の悩み。
いささか散文にすぎるが、まあいい。