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   sunrise*

        嫌でも明日はやってくる。静かな気持ちで今日もゆく。

なにを話すべきかという議論の一つに、妥当性という観点がある。
話すべきことの妥当性の検討をしなければ、会話の質が落ちてしまう。
よって、妥当性を検討することは重要である。

ここ数年悩んでいる場面がある。それは「何か質問はありますか」と聞かれる場面だ。
質問をせずに終わるのは、3つのケースがある。

その1、質問が思いつかない。
 a.内容に興味がない
 b.納得した気がする

その2、質問の質が低い。
 a.教科書やネットで調べれば判る内容
 b.正確な答えを得る可能性が低い(私見が入るなど)
 c. 本筋と関係がない

その3、質問に意味があるかわからない。
 a.聞いたところでどうしようもない
 b.答えがなさそうに思える
 c.屁理屈でしかない

おおよそこのいずれかのとき、僕は黙る。
そしてこれは日常会話の中でも起こる現象なのだ。

たとえば、何気ない日常会話といえば出てくる、天気の話。

果たして天気の話をする意味があるだろうか。

「晴れていますね」
ここからなにか繋がるならば良い。繋がらないならその発言をしたものは知能レベルが低いと思われるのではないだろうか。

「明日は晴れるでしょうか」
天気予報を見ればいい。聞いた相手が気象予報士ならともかく、天気に精通していない人に聞くならば、それは自分の判断力のなさを露呈しているようなものだ。

「雨は嫌いです」
だからなんだというのか。大概の人はそうだろう。価値の低い情報を自ら提供することは、ゴミを相手に押し付けているようなものだ。やめたほうがいい。

「暑いですね」
そうですね。話が広がる可能性が低いですね。暑いということを無駄に再認識させることで相手に心理的ストレスをかけますね。話さないほうがいいですね。

というふうに、自分のなかで「本当に話す必要があるか?」を検討すると、たいていのものごとは話す価値がない。わざわざ言葉と時間を使って伝える意味がない。妥当ではないのだ。

しかし、妥当ではないからと口をつぐめば、結果としてはただの口下手と変わらない。上質な会話を求めた結果が会話下手ならば目も当てられない。
だから、ある程度広がりを持った内容、あるいは、今までの話をさらに深めるような内容を、時宜に即して話さなければならない。

そう思うと会話や質問そのものがストレスに感じてきて、なおさら口の滑りが悪くなっていくのだ。しかし馬鹿な発言は避けたい。

避けたいものではないのだろうか?

世の中、もっともらしい顔をして、お互いトンチンカンな質疑応答を繰り広げる輩が、多過ぎやしないだろうか?

いまいち言葉による情報伝達というもの社会的に求められている難易度がわからない。

まあ、周りの人はどうでも良いのだ。

少なくとも僕は、僕から提供する話題に関して、あるいは質問の内容に関して、上質なものを目指していきたい。

どうしたら常に上質となるのか。

難しい問題である。
いつか自分が認知症を患い、訳が分からなくなる日が来るかもしれない。

あるいは、孤独な老人になるかもしれない。

そうなったとき、周りに迷惑をかけたくない。できるなら周りの負担となった時点で自殺したいと、常々思っていた。

今日、友人と議論しているなかで名案が思い浮かんだ。

自分が施設に死ぬまで入っていられるくらいの資金を用意しておけば良いのだ。

誰にも迷惑をかけない、最高の案ではないだろうか。
愛美さんが日記を頑張っている。

ここ数日のことだが、ぼくはいつにもまして、はたしてどんなことを人に伝えるべきで、どんなことは伏せておくべき、あるいは、秘めておくべきことなのか、悩んでいる。案じている。慮っている。

なにを言われたらひとは喜び、憤慨し、照れ、黙するのか。

いや。
伝えるということは、言葉だけの問題ではない。

表情、仕草、声量、音の高低、視線。

相手がなにを必要としていて、なにをどう表出したらふさわしいのかを。

考えている。



うちの母は酔っ払うととても陽気になる。なににつけても「いいじゃない」と言うようになる。

よくないのだ。なにも。

酔っていないひとはその高揚感を共有できない。共有していない高揚感、幸福感は、現在の自分の精神状態と比較したとき(無意識に比較してしまうものだと思うが)、不快でしかない。

これは全てに言えることだ。

感情を同時に共有しない二人がコミュニケーションをとる場合、感情に基づく、ものごとに対する受容のスペクトルがズレているという前提を忘れてはならない。

相応か否かの議論も忘れてはならない。

感情非依存性の価値観というものがそもそもあるのだ。

あるいは、不必要な情報というものもある。(要不要の判断は感情非依存性だが、不要な情報というのは不快感を喚起しかねない。)

気をつけたいのは、万人に受け入れられる語り口というものがあるならば、それはすでに広まっていてしかるべきであり、そうなっていないということこそ、万人に共通して通用する会話方法はないということの証明しているということだ。

よく知るひととの会話の中ではいざ知らず、初対面のひと、あるいはこのブログのように、不特定多数の衆目に晒される可能性がある場合、対処法はない。

だからこそ口をつぐむというのもまた一つの答えではあると思う。

だが、それではブログの、あるいは公開日記というカテゴリの意義がなくなってしまう。

なればこそ、恐れずに、書きたいことを書いていけば良いのではないかと、今日このときの僕は思う。

結局のところ、なにを書いたとしても、あるいはなにも書かなかったとしても、それは未来の自分からの侮辱を免れ得ないのだ。

なればこそ、今日、この瞬間、ぼくはこう考えているという痕跡を残すこともまた、一つの道であると思う。

そう思っていたら、愛美さんもまた、同様の気概を持って日記をつけていらっしゃるのだ。

シンガポール以来、愛美さんへの敬服の念の増したバッジャーとしては、師に習えとばかりに日記を書き始めるほか、ないのである。
君と歩いてどこまでも行こう
信じている道 どこまでも行こう
きっといつか涙を越えたその時に
笑顔で会える

一千億の星の下で
一千億の夢が生まれてる
歩きつづけて 走り続けて
夢を捨ててしまわないように
一緒に行こう

雨が降る街
振り返らないで 1人で旅立つ
そんな時が来る
そっと誰か手を振る そんな気がしたよ
優しさ 熱く

一千億の星の下で
一千億の夢が生まれてる
歩きつづけて 走り続けて
夢を捨ててしまわないように
一緒に行こう

青い大空 飛んでいきたいな
空飛ぶイルカは宇宙を目指す
もっと強く情熱の火を
もっと強く情熱の火を燃やすのだ
大空 泳げ

一千億の星の下で
一千億の夢が生まれてる
歩きつづけて 走り続けて
夢を捨ててしまわないように

歩きつづけて 走り続けて
夢を捨ててしまわないように

一緒に行こう
ふと思ったこと。

例えば、自分が働いていて。
一生懸命仕事して、いい結果が出て、一件落着となったとき。

仕事の相手からその後、個人的な付き合いを申し出られたら、どうだろう。

たぶん、戸惑うし、ちょっと遠慮すると思う。お誘いがしつこかったらなおさらで、怖いとすら思うのではないか。もしかしたら仕事で関わったことも嫌に思えてくるかもしれないし、せっかくうまく行った仕事それ自体が嫌な思い出になるかもしれない。

申し出られることはなくとも、もしプライベートな場で出くわしたら、ちょっと心が乱れるのではないだろうか。

たとえば。
趣味の仲間として知り合った人が、のちのち仕事の相手となった場合。
そのときはきっと、気持ちのいい仕事になるだろうし、より仲が深まると思う。

物事には順序があって、順序をたがえたら、それでおしまい。

初対面の状況で、心の開度の閾値が決まってしまう。

そういうことなのかもしれない。
ねむれずに寝返りばかり打っていたら、ふと気がついた。

ぼくはおそらく、中途半端なことが嫌いなのである。

たとえばのちょうど一年前、このごろ僕はゴルフに倦んでいた。
当然だが、ゴルフ、格ゲー、麻雀、ダイビング、運転、料理、勉強、千菅さんの応援もそう、全てのことは取り組めば上手くなり、しなければ下手になる。取り組み続ければいいが、つまり、持続的な取り組みがなくなれば成果は残らない。時間をかけて積み上げても、やめてからしばらく経てば、なにもやらなかったに等しくなる。したがって、半永久的に続けられることでなければ、やるだけ無駄である。

と、考えたからだ。

いまのところ、この考えに変化はない。
だから。

それがより顕著に実感できるソーシャルゲームというものに、ぼくはおそらく向いていない。

ソーシャルゲームもまた、いつまでも続く他者との競争であり、ほかのあらゆる行動と同じく、まじめに取り組めば時間がかかる。

だからきっと、向いてない。

世の中、時間のかかることばかりなのだ。
それなのに時間は1日に24時間しかない。
すべてのものごとが時間経過に比例して熟達していくから、ひとが熟達できるものごとは限られる。

論点は変わり。

結局、優先度の話に帰結するのだ。

日々その日限定のスキルポイントが24ポイント付与され、幾千ものアビリティから選んで振っていく。各アビリティはポイントを振り続けないとポイントが一定期間ごとに少しずつ減少し、徐々にレベルダウンしていく。

そういうゲームをやっているのだ。

なればこそ。

人生というスパンで、最終的な自分のスキル構成を思い描くことが、まずはなによりも大切なのではないだろうか。

そうなると、おのずと選択肢は絞られてくる。

たとえば、健康に気をつかう時間はなくてはならない。
同様に、仕事のスキルを磨く時間も必要不可欠。

そのほかに必要なものを計上し、1週間、1ヶ月、1年単位で考え、余る時間をやりたいことに振っていく。

そうして、どう生きていくのか、一度考えなければならない。



例外的に、時間経過によっておおよそ変動しないものがいくつかある。

そのひとつが、人との繋がりである。

人との繋がりのなかに存在するものごとは、だからこそ素晴らしく、大切である。

だからこそ、しがらみが生まれることもあるのだが。

難しい問題をまたひとつ。

見つけてしまったものである。
ライブにおいて、サイリウムやコールはなんのためにあるのだろうか。

同じ行動としての表出ではあっても、その意志はおそらく多様であるため、一概に論じることはできない。したがってこの内容は、日記らしく、主観的なものとなる。

私の場合、基本的にはコールもサイリウムも入れたくない。

どちらの行動も、タイミングを外さずに完遂しようと思うほど、演者さん(というか、主に千菅さん)の歌そのものへの意識の集中が薄くなってしまうからである。

しかし千菅さんが「コールをみなさんがやってくれることを楽しみにしています」とコメントされた場合、これはやらざるを得ない。断っておくが、この場合のコールは決して不本意なものではない。

前提を確認しておこう。私がライブにおいて大切にするものは、第1に千菅さんの幸福。千菅さんが歌っているとき、あるいは将来において振り返ったとき、そこに後悔や不快感、無力感などが極限まで存在しないことが、なによりも優先されるべきであると考えている。
第2に周囲への配慮。周囲への配慮が足りず、なんらかの禍根を残した場合、それがすなわち千菅さんの悔恨となってしまう可能性がある。ゆえに避けねばならない。(そもそも自分勝手に振舞うことは、ライブ以前に私が最も嫌う浅慮な行動のひとつである。)
第3に--とはいえ、第1と第2が達成されていればおのずと得られるものであるが--自分の幸福である。

したがって、千菅さんがコールを望まれた場合、コールを入れることは好悪の範疇を超えている。いれてしかるべきなのである。しかし、ファンによる土着的慣習としてのコール(フワフワなど)は、私は行わない。千菅さんが望んでいるかどうかわからない以上(とはいえ、千菅さんは「みなさんが自由に楽しんでいただければ」としか言わないのだが。自由とはなにか、勝手に振舞う人々は再度考えてほしい)、歌は静かに聴くものという価値観に則って、私は沈黙する。

サイリウムに関して。サイリウムというのは難しい。上級者向けのアイテムである。昭和以前の曲ならいざ知らず、近年の曲は欧米風に、拍の頭が裏であったり、そもそも日本人の大好きな4拍子ですらないこともある。
にもかかわらず、まるで思考を持たない機械であるかのように4拍子を表拍で振り、それ以外の拍子の曲ではなんだかふわふわと振っている人たちがあまりにも多い。その行為自体が、曲を聴き込んでいない、あるいは曲に関心がないことの表れであり、ひいては千菅さんに対する失礼な行為である。
私は、すべてのイベントやライブが、千菅さんにとってどこまでも美しく素晴らしく、かけがえのない思い出となってほしい。そう強く思うほど、曲に合いもしない振り方をする人々の存在に人知れず緊張感を覚えるのである。

愚痴がすぎた。ともかく、こうして考えると、サイリウムを振るならば、曲にふさわしい振り方をしなければならない。繰り返しになるが、サイリウムを振ろうと思えば思うほど、千菅さんのパフォーマンスへの意識の集中が薄れるのである(いうまでもないことだが、集中せずに千菅さんのライブを見聞きするなど、たとえその様子が千菅さんに伝わらなかったとしても、あまりにも失礼なことである)。
結局、サイリウムを振るならば、半ば以上に無意識的であるべきだし、それは上級者にしかできない所業である。

ならばサイリウムは不要か。

先日伺った大橋彩香さんのライブを観た限り、サイリウムが禁止されていても会場全体の幸福度に大きな差はないように感じた。したがって、不要なのかもしれない。

しかし、演者さん曰く、自分の曲に合ったサイリウムの色が輝く会場は綺麗なのだそうだ(千菅さんも似たようなことをおっしゃっていたような気がする。要検討)。ならば、現在サイリウムをライブ中に振ることが定着していることを鑑みると、やはり振ったほうが千菅さんの幸福度は高いのかもしれない。

非常に難しい問題である。

盛り上がりを、付加するため、わかりやすい形とするために生まれたであろうコールとサイリウム。

しかし、そうして安易に表現しなければ、客の盛り上がりは千菅さんに伝わらないのだろうか。

千菅さんにとって最高のライブとは、どのようなものなのか。結局はそれがわからなければ、判断の下しようがないわけだが…きっと教えてはくれまい(実際、別の問題について問うたとき「そうして考えてくれているだけで私は嬉しい」とおっしゃっていた)。困ったものである。
走り書き程度に。



ひとくちに友人といってもさまざまである。

心の距離、開度そのものがすなわち、いかに友人であるかを表す。

さて、心の距離は情報の共有量におおむね反比例する。

情報とはすなわち己が判断材料であり、これが重複するということは判断が似通うということである。意志や発言に関する齟齬も減る。齟齬が減ればすれ違いやそれに起因するストレスも減る。そもそも発想からして似通ってくるので、心の距離が縮まってしかるべきであろう。

しかし、情報には貴賎がある。思想の中枢に近い情報を開示してしまえば、相手に心を読まれやすくなる。あるいは、読めるということと間違った優位性とを錯覚させる。これは非常に、とくに依然として心の距離が遠い場合、不愉快なことである。

なればこそ、ひとは重要度の低い情報から開示していき、互いの信頼性と性格とを推しはかり、認めれば徐々に重要度の高い情報を開示するのである。

ということは。

長らく道をともにしたからといって、道中の反応が虚構のものであったならば、あるいは重要な情報から隔絶された状態であったならば、どれだけ新情報を共有しようとも、心の距離は縮まらない。

またいちどそのような状態になってしまうと、なおさら互いに向き合いにくくなるのである。

ということで。

今まさに、他人との間に心の隔壁を下ろしてしまった友人を、僕は心配している。

心配しても、人の好悪は仕方のないことではあるが。

ストレスや悩みを抱えきれなくなる前に、ひとつ相談してほしいものである。
人にはそれぞれ、思惑というものがある。

それは意志であり、したがって表出しにくく、また表れたとしても結果自体に読み取りの多様性があるため、判然としないことが多い。

個々人はえてして事象に、単一の観点からの評価のみを与えがちであるが、それが発信者の意図と合致することは奇跡に近い。

結局のところ、伝えたいことが齟齬なく伝わることは極めて稀であるということの、受け取る側からみた言い換えでしかないのだが。

だからこそ。

発信者の果てしない努力に呼応して、受信者は、自分の得た感想が、まず間違っているということを忘れてはならない。

理解するということは、かくも困難を極めるものであるのだ。

そして孤独を感じ。

少しだけ僕は寂しく思った。
期待というのは、非常に無責任で、意地きたなく、ぶしつけなものである。

だいいち、期待するほうは失うものがなく、つまり等価を用意することなく、相手に最上の結果だけを求める。そして往々にしてその過程を、しばしば無意識のうちに、ないがしろにする。

一度誰かを期待させてしまえば、一度誰かの英雄となってしまえば、待ち受けるのはさらなる飛躍に対する期待、期待だけなのである。

期待をもたせた人間は、その後一度でも期待を「裏切れば(不快なことに、この言葉自体が期待する側の非常に恣意的なものである)」、成功をつかんだことすら過去のものとされ、敗者のレッテルを貼られて忘れられていく。

そもそも、誰かを幸せにしたいという慈愛に満ちた精神によって、その行為は行われたはずである。

失敗の許されない重圧のみを押しつけられ、報われることのない被期待者へ、その立場にない人間は、いったいどんな言葉をかけたらよいのだろう。

磨耗し、倦み疲れてゆく英雄たちを、どうしたら癒すことができるのだろう。

努力している人間に、努力しすぎるなということほど、相手の人生を否定する言葉もない。

あるいは癒せるなどという発想が、そもそも烏滸がましいのか。

非常に心が苦しい。