「君の膵臓を食べたい」を読んだ。
きっかけその1、かねやんが絶賛していたから。
きっかけその2、心が抑鬱されていたから。
最近、なにをしても楽しいと感じられない日々を過ごしている。
友だちと会って話をすれば笑う。まだそれくらいの活度は保たれている。けれど、その程度だ。最近の僕の心は、おおよその趣味を楽しむレベルにない。先日高原一面に咲くコスモスをみて、全くと言っていいほど感動していない自分に気づいて、ちょっとやばいなと思った。
なにかしら生産的な行動をとりたい、考えたくない、時間を無駄にしたくない、お金も使いたくない。
今日は何をしよう。今日は何をしよう。今日は何をしよう。
自縄自縛の思考の連鎖と焦燥感に耐えかねて、気づけばベッドに横たわって天井を見つめていた。
こういうとき、いかにして過ごせば解決に向かうだろうか。そうだ、読書だ。本を読んでいるあいだはなにも考えなくていい。あまり難しくない内容の、うん、小説がいい。そういえば…
という過程を経て、ぼくは「君の膵臓を食べたい」を読むに至った。
3時間ほどで読みきり、これを書いているぼくの心は、3時間前よりも軽い。本はすごい。
いや、本というのはすごいのだ。本は筆者の世界だ。ぼくはまるで他人の脳みそを移植されたみたいに、今まで生まれてこなかった発想に出会い、驚き、時に受け入れ、時に拒絶反応を示すのだ。
きっと読書は心の状態を変える特効薬だと、ぼくは思う。
あるいは最も年間読書量の多かった小中学生のころの自分が戻ってくるからだろうか。
ともあれ。
本について書こうと思う。
まずなによりも、タイトルだ。
「タイトルの意味を知ると感動する」と謳っているが、知ってしまえばむしろ興ざめであった。というか、こうして白けてしまう結果を予想できなかった自分の愚かさにがっかりだ。
ようは「言語ゲーム」だ。
いや、ヴィトゲンシュタインが提唱した言葉を衒学的に拝借したが、正しくは以下の通りの意味で用いた。
とある集団内で用いられる言葉は、その集団内に共通の記憶を前提した、多面的な意味合いを有する。
これは、本のタイトルがどうとかいう以前に、非常に大切なぼくの哲学なんだけど…まあ…おいおいね…
話が逸れることはなはだしい。
ようするに、現実世界のもとの、つまりは抑鬱されている自分が考える思考に復帰してしまったわけで、タイトルの伏線回収場面は興ざめだったのだ。本は悪くない。陳腐なだけで。
さて、内容についてだが。
と言っても内容には触れないが。
結局のところ、伝えたいことは伝えられるうちに伝えとけ、ということだ。
それから、代替不能な人の喪失、およびそれによる悲哀。そして救済。
以上。特に考察はしない。
なぜ考察をしないかは、後日このネタを覚えてたら書く。
読んでしまえば、これくらい自分でも書けそうだ、と思ってしまうところに、著者のすごさがある。本を読むと毎回思う。
それほどにわかりやすく、かつ面白いのだ。
こんな文章、絶対に書けない。
情景描写の強弱がよかった。
つぶさに描かれる場面と、読者の想像力に委ねる場面のコントラストが素晴らしかった。
味覚についての描写は、ちょっと雑だった。というか、視覚以外の四感に関してはいずれも描写がイマイチだった。著者の感性が鈍いのか、主人公の鈍い感性を体験させたいのか。
そう思うと、視覚情報の緩急も主人公の意識のばらつきの表れかとも思えるが。
いや、でもなあ。違う気がするなあ。本についてどういう描写があったかなあ。
気になる。今度また読もう。
まあ、いい時間を過ごしたな。
久保田を飲んだら寝よう。