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   sunrise*

        嫌でも明日はやってくる。静かな気持ちで今日もゆく。


曇りの日は好きだ。

気温が少し低くなるぶん、普段よりも自分の体温を感じる。
暑くもなく、寒くもなく。
非常にフラットでいい。心が落ち着く。

損することも、得することも、怒ることも、喜ぶことも、陽気になることも、陰気になることも、空腹を感じることも、満腹を感じることも、感情的になることも、無感動になることも。
全ては褪せることなく、ただ、曇ってゆく。

曖昧になってゆく。

模糊とした世界。
落ち着いた世界。
繊細なバランスの上にある世界。

しかし停滞ではない。
ひたすらに平穏であること。

それを望んでいる。

バランスが崩壊し、世界が崩落する様もまた儚くて美しい。
いずれやってくる曇りを予感させるのだから。

僕は閉ざされた場所に住んでいる。
僕だけでなく、きっとあなたも閉ざされた場所に住んでいる。
不可視の、しかし絶対に破れない、社会という壁の内側…あるいはコンパートメントの中で生きる以外、きっと普通に生きる道はない。

ならば、とうぜん人間関係だって限定されてくる。
偶発的な人との出会いを求めるなんて、夢物語もいいところだ。
たとえば合コンやインカレ、何らかのイベントなど意図的な交流会、壁のチャネル的存在ともいえる知人を介する以外に人と知り合う機会なんてそうはない。

しかし果たして、そのような限局的な環境において、本当に自分と馬が合うパートナーを見つけられるのか?

たぶん、7割くらいは合う人が見つかる、と思っている。
全体の7割の人が見つけられるのではなく、自分と7割合う人が1人見つけられる、という意味だ。

日本に関して言うなら、きっとどこの義務教育機関においても似たような社会が構築されているのだ。お調子者がいて、真面目くんがいて、可愛い女の子がいて、かっこいい男の子がいる。一昔前では全国的に放映されている、つまりは大人も口の端に上げるようなテレビ番組を中心とした話題が、ネットの普及した世代においてはネットで持ちきりの話題が、それぞれのコミュニケーションの中核をなしたりするだろう。

だから、というと論理の飛躍になるけれど。
自分と似たようなキャラの奴が、同世代だけでも全国に何千と生み出されているのだ。
似たような境遇に育って、あるいはそうでなくとも似たような思考を持つようになる人が。

そして、似たような嗜好を持つ人が自分の嗜好と近似する要素をもつ同集団内の異性(に限定するが)に「恋をしている」と思うのだ。

浮気はそういうことで起こる。
近似値の高い、あるいは同程度である、もしくは認識していなかっただけでより自分の本来の嗜好に沿う別集団の異性に興味を抱く。
それは仕方のないことじゃないだろうか。
唯一無二だと思っていた存在がそうでないと知れば。
レアリティが下がる――大切に想う気持ちが摩耗する。
どうでもよくなる。

だからつまり、僕が言いたいのはこういうことだ。

自分が好きだと認識している相手が本当に自分にとって最上の相手かどうかは、それを超える存在に出会うまでわからない、と。

結婚という社会的ステータスの関わらないただの恋愛の場合、だから僕はそんなに本気になれない。相手に対しても、恋愛そのものに対しても。
所詮「暫定一位」でしかないのだから。
「あなたのことが誰よりも好き」なのも当然、「こんな気持になったのははじめて」なのも当然。
いままで付き合ってきた、数えるのも面倒なほどの女性たち。
等しく愛を振りまき、好条件の相手が出現すれば捨て、あるいは捨てられ。
そういうゲームに興じるのにもほとほと飽きた。飽きている。飽きてしまう。
興味を持てなくなる。

いっそ、こんなことを考えることもせずに、ただ自分の選択し、自分を選択した異性こそが無上の存在であると、信じて疑わずにいられるほど僕も単純であったならと、思う。

ただ、わがままなだけなのだけれど。


もうあまりにも、どうみても、ずばりこの年の頃の発想すぎて書き始めることにすら恥ずかしさと尻の青さを感じながら、すこし書きたいことがある。
それは常識とかペルソナとか、そういう話。

ただし、
1. これから先の社会は人の集合という意味合いで用いられる。
2. これは一般的な話であって、一般的とは標準的と言ってもいい。
2-1. 標準的な人とは、義務教育を修了し、あるいは義務教育の過程にある日本人のことをいう。

人は総じてなんらかの社会に属しているし、同時に複数の社会に属している。また異なる社会において人は異なる顔、面、仮面、あるいはペルソナと呼ばれるものをもつ。それは意識的に付け替えるものであるため、使い分けが必要な理由は人により異なる。それでも共通していることがひとつある。それはすなわち、同社会の構成員は情報を共有しているということ。つまり、その社会をなす根幹となる共通の認識が、言い換えれば常識がある。

ネットの利便性、特徴は、ネットが普及し始めた頃から常に言われ続けていることだが、その匿名性にある。匿名性とはすなわち、名前、年齢、国籍、性別、職業、年収、その他個人情報となる全ての要因が必要ないことを指しているものとする。そしてネットをコミュニケーションツールとして利用する際に必要なのは、現実でコミュニケーションをとるにあたって必要なものとだいたい同じだ。文法的、内容的に理解可能かつ適切な情報を相手に伝え、また受け取ること。最近では即応性まで求められるので、表情や抑揚といった現時点では実現困難なノンバーバルランゲージの授受を除けばほとんど差異はない。

ここでオタクのオフ会について考えてみる。
性別や年齢、住所、あるいは容貌について、その他もろもろ、個人的な情報を開示することも、たとえそれがネットを介していてもオフ会だとすると、ネットで知り合った各々は、ほかの人について同好の志であること以外知らない。そして知らなかったからこそ同志はみな平等で、円滑に会話がはずんだのだ。年齢や性別がわかってしまえば、自ずと相手に対する態度も変わってくる。もし職業や年収などが明らかになれば、さらなる変化も生まれるだろう。こうしたとき、果たして元のような会話を行うことができるだろうか?

答えは明らかにノーだろう。関係が変わってしまったら会話の形式や内容も変わる。当然だ。共通の認識が変わってしまった以上、たとえ構成員に変化がなくても、構成員自身の性質が変化してしまうために、つまりは構成要素に変更が出るため、その社会は別の社会に変わる。元の社会は消失する。オタクの以前有していた平等は失われ、社会的な差が生まれる。

僕はその事態を厭う。純然たる気持ちで趣味を語れなくなることを恐れる。好きなものについて、自由に、そして新鮮な観点から、あるいは自分の知り得なかった情報を得て、他人と交流する楽しみが、なくなりはしなくても薄れる。そんな気がする。
無論僕とは逆に、どんな人が同志なのか、そのバックグラウンドまで知ることでより一層楽しめると考える人もいるだろうし、そういう考えが理解できないわけでもないから否定はしない。

最近増えてきた同志たちとの交流を経て、自分と同志との社会的な立ち位置の差異を目の当たりにして、つまりは属する社会がまったく同一であるわけがないという事実を目の当たりにして、おそらくはそれが原因で僕の心はどこかざわついている。浮ついている。地に足がついていない。そんな感覚があったからとりあえず文章にしてみたものの、つらつらと考えているうちにどんどん分からなくなってきた。僕はなにが気に喰わないのか、それすら分からない。

うーん。