マット・リドレー著『繁栄~明日を切り拓くための人類10万年史 上・下』を読んでいる。
人類の繁栄の元は、モノの交換によって分業と専門化が促進されたのだという説だ。
原始時代に人間は物々交換を始めた。
魚を捕るのがうまい人は、余分に取れた魚を骨で作られた釣針と交換する、鹿を捕るのがうまい人は余分に取れた鹿の肉や皮、骨を魚や矢じりに交換する。
矢じり作りが得意な人は、獲物を追いかけるのではなく、矢じり作りに専念する。
それぞれの分野に専念することによって、技術が磨かれより多くの獲物が取れたり、より多くの釣針を作ることができる。
そうすることによって、お互い余分に取れたものを他のものに交換することで豊かな生活をすることができる。
衣服を作るための毛皮を得るために苦手な鹿狩りをする必要がなくなるというのだ。文明の基礎となる文字の発明も誰か他の人が食料を取ってきてくれるからこそ、文字に専念できたのだ。
19世紀の経済学者のデヴィッド・リカードも「比較優位の理論」として同じ論旨を展開している。
考えてみると衣食住をすべて自給自足するとなるといくら時間があっても足りない。
それよりも自分の得意な仕事をしたほうがより多く稼げて、多くのものを手に入れられる(交換できる)。
現代人の生活も交換と分業と専門化の賜物だ。ペットボトルひとつにしても一から自分で作ることはほぼ不可能だ。一般的なサラリーマンの場合、家も車も服も食料も何一つとして自分で作っているものはないだろう。
交換と分業と専門化。
そこではたと気づいた。
今、文字を入力しているこのPCはどうだ!?
確かに便利な機械であるし、インターネットを通じて様々な情報にアクセスできるし、様々な物を売り買いもできるし、そもそもこの機械がないと仕事にならない。
しかし、しかしである。
我々の仕事は、PCが導入されて効率化されたのだろうか?
もっと違う言い方をすると、PCのおかげで仕事の時間が減ったり、楽に仕事ができるようになったのだろうか?
仕事が効率化されたおかげで、少ない労働でより多く稼げるようになったのだろうか?
余暇を十分に楽しめているのだろうか?
否。
私の感覚では、仕事が増えているような気がする。
なぜか?
PCは、分業のための機械ではない。PCはある意味自給自足の機械なのかもしれない。
例えば、15年前にコンサル会社で働いていたときは、出張に出かけるにしてもアシスタントに「どこどこに何月何日から2日間。」と伝えれば、飛行機のチケットを取ったり、宿泊の予約をしてくれたりと手際よく出張の手配をしてくれた。
出張の手配を頼むにかかる時間は30秒もいらない。
しかし、今は自分のPCで予約をする。下手をすると出張の手配だけで、30分や40分かかっていることがある。
これはすなわち、交換や分業でなく、自給自足に戻っているということではないか!!
PPTの作成も昔はアシスタントの仕事だったが、今はPPTが作成できないとコンサルタントとして仕事をしているとみなされなくなった。しかし、一番肝心なコンセプトを考える時間がPPT作成に奪われているかもしれない。
また安価な会計ソフトのおかげで、税理士に頼まなくても簿記がわからなくても大部分の経理処理はできるようになったが、本来の業務に使う時間が経理ソフトに奪われていないだろうか。
DTPソフトのおかげで、デザイナーに頼まなくてもチラシやパンフレットが作れるようになったが、果たしてトータルで効率化されているのだろうか。
私が出張の手配をするよりも、経理の作業をするよりも、営業活動や執筆活動、コンサルティングや研修に時間を投入したほうがより豊かになれることを人類の歴史は示唆している。
そういう意味でも秘書を雇うことは正解だろう。
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