このシリーズでは、「韓非子 ビギナーズ・クラシック 中国の古典」(角川ソフィア文庫)をもとにして、韓非子の内容からフレーズを抜粋して注釈をつけていきたいと思います。
基本スタンスは、聖賢におもねらず、のスタンスで、迎合、鵜呑みにせず、自分なりの解釈に努めていきます。
1)儒家と法家の基本スタンスの比較
「儒家は、家族の愛と道徳とを最も重視します」
「孝」は「家の論理」で、「忠」は「国家の論理」です。法家の立場から見ると、「国家の論理」と「家の論理」とは永遠に矛盾します。法家は、ためらうことなく国家の論理を選びます。
国家の論理と家の論理とは永遠に矛盾する、この「永遠に」というところが大きなポイントになります。つまり、儒家の説く家族の愛と道徳を国家のレベルに押し広げていく事は、どこかで誤謬を生じ決して同じベクトルにはならないという事です。
それはなんとなくわかります。家族の幸せのために行うことが、国家のそれとは違うだろうとは。でも、それでいて、家族の愛と道徳が人間の行動規範として重要な徳目であることに疑いはないと思うのです。であるならば、どの規模から論理は変わってくるのだろう、ということです。
現代的に言えば、じゃあ、家庭の論理と、職場・企業の論理、で見た場合どうでしょうか?家族のために時間を割く事は、今はどんどんそうあろう、という風潮ですが、一昔前ならば、小学生の子供の授業参観のために仕事を休む、とか言えば白い目で見られました。そのために、大事な会議や商談を飛ばすなんてありえませんでした。しかし、今はそうではありませんが、それでも、家庭の論理と職場の論理が同じ方向を向いている、というのは稀です。
例えば、家庭の論理と子供が通う学校の論理、ではどうでしょうか。ここでもたくさんの矛盾があります。学校の論理は集団の論理で、個人個人のエゴとか欲とかは集団のために抑制すべきものに見えます。平日は空いているから学校休んで旅行に行く、と言えばやはり白い目で見られます。
もう少し小さく見て、家庭の論理と、友達、友人の論理、ではどうでしょうか。
この範囲になると、家族への愛・道徳観と、友人への道徳観というのは、集団へのそれと違いかなり近寄っているように見えます。
このようにしてみると、家族・友人という範囲までというパーソナルな範囲での論理と、それよりも広い範囲の集団の論理では、決定的な違いがあるように見えます。それは、家族・友人までは愛と道徳の通ずる範囲で、それ以降は違った規範で動いているという事です。
現在の日本の学校教育で矛盾しているのは、家族・友人の道徳観を、無理に学校という集団の道徳観に同化しようとしていることにあると思います。道徳という一つの概念で。しかし、学校と家庭の道徳観は違うのだから、そこは明確に分けて、線引きして教育して行きべきものでしょう。これは、家族・友人の道徳観、これは社会や集団での道徳観、と。それは、違ったものなのだということをきちんと認識していくことが重要で、日本ではここがごっちゃになっているので、家族的な道徳観で国家的なことを論じたり、国家的な道徳観が必要なことを、パーソナルな道徳観で裁いていったりしているように見えます。例えば、公人的な存在の人の不倫やその子供の様子などで、公人としての存在が葬られてしまいかねないようなことはたくさん見受けられますが、本来は別々に論じる向きがもっとあってもいいでしょう。
このようにして見れば、ここで述べられている事は現代ではごくあたりまえのことです。ただ、儒家が国教のように幅を利かせていた時代背景を鑑みれば、おっと、という衝撃をもたらす内容であるとは言えます。キリスト教世界で、「キリストは復活しなかった」と言っているようなものですので。
2)君主に説得する時の心得
君主に説くときの難しさは、こちらの知識の量や見解の正しさや弁説の能力がそなわっているかどうかではありません。ひとえに君主の心の奥底を見ぬくことができるかどうかにあるのです。
だから君主に諌言したり議論したりする者は、相手が自分を寵愛している君主なのか自分を憎んでいる君主なのかを確かめた上で、自分の考えを説かなければならない。
長い年月を経て君主の恩顧と信頼を勝ち得てしまったなら、疑われもせず罰せられもせず、存分に活躍し、君主とともに国政を支えることができる。これが君主に説く者の目指すゴールだ
この嫌らしさ、この狡猾さ、はとても重要でしょう。君主を現代ならば上司などと置き換えてもいいかもしれません。気をつけないといけない事は、自分の能力の有無ではない、といっていますが、これはある程度能力は備わっているというのが前提となるということです。その上で、論説をするための技術云々、話のうまさよりも、相手の心の奥底、それも自分に対してどのような本音を持っているのか、を認識した上で説諭していくべきだというところです。
ここでしっかりと認識すべきなのは、その君主の気持ちは「変わるものだ」という事です。先週は自分のことを信頼しているように見えたが、今、今日はどうなのか、そのことをきちんと冷静に分析し認識し対処すべきことが大事だ、といっております。
このような姿勢というのは、決して「上司におもねる」ということではないと思います。上司にすり寄り、上司の寵愛を受けるべくイエスマンになれ、ということでは。そうではなくて、自説が受け入れられるための環境が整っているのか、整っているならば、理路整然と伝えたいことを伝えていけばいいでしょう。他方で、そのような環境にない、自分に対してネガティブな気持ちでいると認識するならば、単に道理を説いても何に進みません。それどころか、嫌いな奴から道理を説かれるほど癪に触る事はありません。
そのような時は、詭弁を弄するとか、あるいは自分の思いと全然違うことに論を向けるとか、策略を練ることが必要でしょう。もちろん、そのような状況ではそもそも戦わない、という判断もあるかもしれません。
君主や上司には、自分と違ったレベルでの情報が入ります。そのことを念頭に常において、自分と君主の親愛度がどのような状況か、自分と上司の親愛度がどういう状況か、これは刻々と変化するのだ、常にアンテナを張っておくべきでしょう。
さらにもう一つ。人の上に立つものは、基本的には短気でうつろいやすい気持ちを持つような環境にある、と認識をすべきでしょう。社長であれば、会社の業績に対してのこと、社員や顧客のこと、また多くのステークホルダーのこと、さらに風評、政財界の関係者からの影響、さらには世相などからも影響を受けます。これらの動向がどのようにTOPに立つものの心境に影響を与えるかは、下の方からは見えにくいところです。その結果として、自分への心情、というものも影響を受けるのだ、ということを認識し、細かく観察をしていくことが大事でしょう。