交通網がズタボロの早朝、夜勤の亭主が朝6時に車を出してくれた。

普段なら車で40分程度の大学病院も今は2時間掛けても着かなそうで6時に出ることにしていた。

朝は弱くて私に文句を言われながらやっと起床していた亭主も、私の病が重くなってからは一人で起きられるようになった。今朝も気付けば既にいない。テールランプひかる車列に何とか入り込んでちょっと気持ちに余裕が出たような亭主に聞いたら朝5時前には起きて、車の雪をどけていたと言う。熟睡した私とは対照的にバックミラー越しの亭主の顔色はすこぶる悪い。

ふと「5時前に起きたのではなく、眠れなかったんじゃないのか?」と思ったが、んなことを聞いてもそこから膨らみそうな会話でもないし、私は口を噤んだ。

 

 

先月末、入院時に心サルコイドーシスのPET検査で偶然写ってしまった右乳房の何か。主治医は「右の乳房にガンが見つかりました」とハッキリ言い切り、慌てて循環器の検査を切り上げ退院、すぐに乳腺外科受診の予約をした。で、今日がその診察日だった。

告知から時間があり過ぎて、告知の決め手となったPETの画像も見ないまま。ドラマのようなショックも無く、淡々と情報を集め読みふけっていた。ネットじゃないんだな、やはり本。付箋付けたり、気になる所を何度もいつでも読めるから。

 

 

取りあえずこの三冊を繰り返し読むうちに「私がこのパターンだったら、こうして…」と想定が具体的になっていた。

要介護の親を抱えていたら何とか手術は出来るけど、抗がん剤も放射線も無理だと悟った。

現在進行形の難病を抱え、副反応も加わえ認知症の親も…私の手は2本しかないし、10指のうち4指しか動かない。悪い所を切り取っても、それ以上の副反応の強く出る治療行為を出来る理由が私には思いつかない。

 

何とか大学病院に到着して受付を済ませ亭主と待合室に座る。何だか落ち着かない。

出産時(病気のため臨月と同時に帝王切開だった)も私は亭主・実母・義母全て病院には来させなかったし。誰かがいても状況は変わらないし、高確率で悪いカードを引く自分は諦める術を心得ているが、他者がいれば自分の気持ちを放っても隣の誰かをケアしなければならいのもシンドイ。何より今日は亭主に来てもらう気は毛頭無かった。チーン

 

待合室ではオリンピック競技が放送されているが、私たちが座ったパートで真剣に競技を見ている人はいなかった。同類であろう患者の半分が夫同伴だったのは当然と言うか意外と言うべきか。病人の私よりも更に顔色が悪くなった亭主に話しかけるのが一層憚られ、『ご自由にお持ちください』と幾重にも置かれていた冊子棚に行き、取りあえず今の自分に必要そうな冊子を手にした。

 

 

冊子を手にして席に戻りパラパラと見る。今朝まで読んでいた本の内容と重複するが、いや、むしろ必要な事柄を凝縮されていて、心が折れそうな時、分厚い本を読む気力もない状況なら本を買うより、この冊子の方が即戦力になると思った。

 

予約時間をかなり超えて名前を呼ばれた。亭主に「一緒に来るの?」って問う前に亭主は立ち上がり診察室に歩き出した。ここでは当たり前の光景なのか、先に進む亭主の姿を誰も気に留めることもない。

診察室に入り循環器でのPET検査で何かが映りこんでしまった旨の紹介状を既に読んだ医師を相手に質問タイムが始まる。

医師「自分で何かしこりを感じたことは?」

私「指がこんな風になっていて親指と人差し指しか使えません。包丁も握れずペットボトルも開けられないし、指摘されてから触診も挑戦しましたが…無理でした」

過去の病歴と今戦っている病の一覧を見て医師は『上手だわ』と思える様な上品で亭主には気が付けない溜息をついたのを私は見逃さなかった。

「実は私は検査結果でガンが見つかったとは聞かされていますが、その発端となった画像を未だに見ていないのです。」と言うと、医師はすぐさまモニターにそれを見せてくれた。背後から亭主がモニターをのぞき込む気配がする。モニターには確かに右の乳房辺りに突然の毒々しい光点があった。左には無いのに。

「今日、いくつか検査を入れます。今日、分かる限りの説明はします。」と言われ、私たちは診察室を出た。

 

最新のマンモグラフィーで乳をアクリル板の様なものでかなり挟まれた。検査技師さんから「痛いでしょう?ごめんなさいね。」と何度も謝られたが、過去、椎間板ヘルニアの手術を受け、心臓カテーテル検査を受けて間もない自分には、「マンモグラフィーの乳挟み」が痛い部類に入るとは全く思えない。日頃の生活の方が何十倍も痛いし辛い。

 

エコーは男性の技師さんだったが、可哀そうなくらい気を使われ困った。医療行為に「男は嫌だ」等、騒ぐ輩が確かにいてその結果、この技師さんはこんなにも気遣いしているんだと思うと切なくなった。かなりマズいのか、技師さんはかなり時間を掛けて丹念に念入りに「毒々しい光点」を探しているのがわかる。が、何だか妙に心地よくて検査の半分を私は寝てしまっていた。滝汗何度も寝落ちそうになってハッと目を開き、その都度、技師さんもビックリしている。ここに来て、この検査を受ける意味を熟知する技師さん。真剣に仕事をしている中、寝落ちした女は初めてだったのかも知れない。「すいません。気持ちよくてつい…」と言ってから、この状況で言うべき言葉でないと気付き気まずくなったが、技師さんは黙々と職人として頑張ってくれた。

その後も検査は続き待合室に戻った頃には患者もまばら、見るつもりもないけどテレビが良く見えそうな席に亭主と座った。

ここからも長かったと思う。とにかく待った。耳には何かの競技の実況が流れていたが、病院内で見た競技が何だったのかは今も分からない。隣の某科の外来受付で認知症を持つであろうご老人が、来年の夏の診察予約を取りたいと言い30分以上職員さんにごねていたことだけは記憶に残っている。

 

そして、やっと名前を呼ばれた。

「親の介護があるから、僅かでもリスクのある温存はしません。放射線治療も抗がん剤も今以上の副作用のある治療は出来ません。」自分で決めた言葉を何度も心の中で繰り返し練習する。亭主にさえ一言も相談はしていない。自分のちんけな意地でも、病に対する絶望でもない。認知症の親を抱えると、この回答しか選択肢はないのだ。

 

今回は亭主の歩みは遅く、私は速足で診察室に入った。