今日は、大切な友人の手術日。

柄にもなく、ただひたすらに祈っていた。

 

祈りなど何の役に立つものかという人もいると思うが、我が家の場合、毒母が相も変わらず暴言ばかりで、祈ることによって毒母の暴言を耳でシャットアウト出来て、精神衛生に非常に良いことだけは確かなようだ。あとね、気に掛ける程の相手が自分にいるという嬉しさ。時折、吹雪でホワイトアウトになる窓の外をチラ見しながら、祈った。

 

で、全く上記の話題と関係ないことで恐縮なんだけれど。

 

唐突だけど私は『倉本聰』という脚本家が嫌いだ。

北海道と言えば、彼の作品のいくつかを思い出し、イメージされる方もいるのだろうけれど、私はとにかく嫌い。

別に彼に400万貸して「贈与されたものですから」と踏み倒された訳でもなく、彼に不快の感情を持つ自分自身がよく分からずにいたのだが、最近になってやっと、彼に対する深いの原因に辿り着いた気がした。それは……

 

彼の作品「北の国から」や「昨日、悲別で」の他にもいくつかの作品があるけれど、彼の描く北海道の田舎者って「性善説」の上に成り立ってること。

対して都会の者は、童話に出て来るキツネのように狡猾、卑怯と判で押したかのように相場が決まっているのである。

 

彼が描く北海道の田舎、実は私が中高時代に暮らしていた街でもある。最近、光テレビで偶然見た「昨日、悲別で」などは、時代も何もかもがアルバムを見ているような感覚になった。

 

あの頃のあの辺の高校生。ちょっと突っ張ってた女子生徒は冬に赤や黄色の長靴を履いて自己主張なんぞしていた。(これは悲別のエンディングの高校生たちの学祭後夜祭の様子を見ればわかると思う)それはテレビ向けにデフォルメされたものではなく、マジであの当時の田舎の女子高生が履いていた。

あのシーンを目ざとくエンディングに入れた倉本聰は、ある意味、切れ者なのだとも思う。あのシーンだけで、北海道の倒れかかった炭鉱町の高校生の純朴さを前面に押し出したのだから。

 

でも、別にあれば純朴でも何でもないのよ。

単に田舎でおしゃれできるものが皆無で。登校時間に除雪もされてない通学路を歩くには、もう長靴しか選択肢がない訳。

色も当時は赤や黄色に紺くらいしかなかった。雪のない都会人から見たら、あの姿だけで笑えたと思う。(現に笑われたしなぁ)手の届く店に、今の時代ほど、多種多様の冬用の靴があれば、あんな赤や黄色の長靴なんて履いて歩く女子高生なんていなかったと、当事者である私は断言する。

 

で、倉本聰はそれを「北国の連中は純朴なのよ。見ればわかるでしょう?」ってグイグイと押し付けて来る。

田舎にだって人殺しも詐欺師も、様々な悪人はいる。田舎暮らしをしていて、日々、綺麗な景色を見て都会に毒されないとみんなが「黒板五郎」みたいに育つってのは、もう幻覚幻聴を疑えって言いたくなる。人である以上、他人のものを羨ましく思って盗みを働いたり、妬んだりもするし、誰かを陥れようと平気で仕掛けてくる奴っている。倉本作品の田舎者全てが善人というわけではないが、それでも彼の作品の根底には「田舎者は純朴で正直、他人に騙されやすいお人よし」であり、対して都会人とは「隙あらば他人を騙してでも、自分の欲望を満足させようとしている」と、どこかの会社の定型文をも連想させてくる。

 

倉本作品の「田舎の道にそれた者の言い訳」ってのも、貧困だったり、家庭的に恵まれていなかったとかばかり。それって、都会にいる者も同じことで病んでるよ。何で田舎者には、情状酌量される事案になって、都会人だと「だから都会人は、汚れきってしかたねぇ」ってなるのか。

それが深いの原因だと知り、何だか脱力した。

 

自分の価値観を押し付けるなよ。

この試される大地にも、糞みたいな理由で今日も様々な事件が起きている訳で。田舎者=純朴の図式、私は生涯、好きにはなれないと思っている。

 

田舎に越して来た家族が、村や町のやり方に疑問を呈しただけで、酷い村八分にされている現実を、倉本聰がドラマにでもしたら、私は彼に対する見方を180度変えるだろう。

 

都会が人を腐らせるんじゃない。

性根の腐っている奴ってのは、人が集まればそこに一定数、いるもんだ。あとは、親と呼ばれる者が真っ当にしつけを出来なかったという悪循環。これに田舎も都会もねぇよ。