成り行きで、娘に『ずうとるび』の動画を見せた。
動画の中で、17歳の娘は笑点での座布団運びの山田君しか分からずにいる。
そのおじさんになった山田君が「キャーっ!!」と声援を受けながら歌っている姿を見て、カルチャーショックを受けていたようだった。私が中学生の頃だったなぁ。クラスの女子が「私は今村君」「私は江藤君」って騒いでいた記憶が蘇る。
当時の彼らは、今でいえば『嵐』くらい人気があったと思う。
レギュラー番組も多かったし、歌もヒットして紅白にも出ていたし。
彼らの代表曲を調べると「みかん色の恋」となるらしいが、私の脳内では彼らは何時でも『恋のパピプペポ』を唄っている。
で、彼らを思い出す…と言うよりも、これを思い出すから彼らを思い出すという、テレビ番組がある。それは…
“学校そば屋テレビ局”。
他の人は“笑って!笑って!!60分”や“三波伸介の凸凹大学校”を挙げるが、私は“学校そば屋テレビ局”に挙手してしまう。
今、改めて調べてみるとこの番組、由利徹にエバ、相本久美子、谷啓、笑福亭鶴光、たこ八郎、鶴間エリ、東京ぼん太と当時としても錚々たるメンバーだった。舞台形式で(8時だョ!全員集合のような舞台の公開録画形式。でも自分的には突撃!ヒューマンの方が分かりやすい気もする)
アイドルがドタバタを演じているのは番組的には当然なんだろうけれど、私がツボったのは唐突に鶴光が放つ「小話その1」「小話その2」……私の周りの同年代は、あの番組で鶴光を知り、そのままオールナイトニッポンのリスナーになっていた。今も蕎麦など面をゆでる時には♪がぁ~っこう、そばや、テレビきょくぅぅぅっ♪と、箸を手に歌っている。
蛇足と書いてしまうと語弊があるが、“笑って!笑って!!60分”は、ずうとるび主演の「哀愁学園」が人気があったけれど、私はあの当時、録画できる何かを持っていたなら迷わず「哀愁学園」ではなく「マラソンインタビュー」を欠かさず録画しただろうと思う、いや、思うどころか悔やまれる。デビューしたてのアイドルたちが、たすき掛けでマラソンをしながらインタビューを受ける。その企画がいいのではなく、そのマラソンインタビューに答えていたメンツが素晴らしかったのだ。と、偉そうに書いても、覚えているのは松田聖子やピンクレディ等、有名どころばかりだったけれど。で、探してみたら見つけた。
何と!先日、某番組で医師から認知症の疑いがあると公開宣告されていた松崎しげるまで走っているではないか!?
高見知佳は日テレで青島幸男とゴールデンで番組を持っていて、動じることなく相手をしているのを見て聡明なんだなって感動していた。彼女なら芸能界で生き残れたと思うのだけれど、聡明が故に、彼女が芸能界へ背を向けたような気がしてならない。
あ、ずうとるびからかなり話題が流されている気がするな。離岸流に流されている私。
ここまで流れてきたらこれに触れない手はないか。
テレビCMで頻繁に流れていて、でも、何度見てもよく分からなかった方々。(でも、私が見ていたCMはこれじゃなくて、曲のサビ部分シリーズだったと思う)
頭痛で寝ている娘がいたら「え、スノボー?」「ん、スケボー?」と、何度か問い直しただろうな。
スターボーは時々、夫婦の間でも話題になる。亭主が好きなYMOの細野氏が深く深く関わっていて、私がスターボーの話題を出すと、亭主はやり切れない表情をする。そして「スターボーが登場する時代が早すぎたのさ」と、今もスターボーを援護する発言をし続ける。
スターボーと言うのは、作詞・松本隆、作曲・細野晴臣の“ハートブレイク太陽族”という曲を引っ提げて登場した。
俗世に疎い私でも、テレビでCMをし続けてくれたおかげで、今も記憶に残っている。高校になって覚えなければならない公式がたくさんあったが、私の脳はこのスターボーに当時、かなりの領域を占拠されてしまっていた。
設定などあったのかと改めて調べると……
1982年7月7日、「ハートブレイク太陽族」(作詞:松本隆、作曲:細野晴臣)でデビュー。当初の名義は宇宙三銃士 スターボー。太陽系第10惑星「スターボー」から脱出し、地球に「A・I(愛)」を伝えるためにやってきた性別不明の3人組アイドルという設定の下売り出された。ただし、ラジオ出演した際には「悪い地球人にさらわれた母親を探しに男装して来た」という発言(設定)も明かされている。(wikiより)
おいおい、母さんがさらわれたって、河童の三平じゃないんだし。
取りあえず「母さん」出せば、世の中の気を引けたんだろうか。
今も亭主は必死にスターボーを庇うのに、この記述を見たら亭主、倒れるんじゃないだろうか。
「ハートブレイク太陽族」などの作詞を担当した松本隆はスターボーの商業的失敗について、2000年のインタビューで「全然記憶がない(笑)。多分ね、思 い出したくない、早く忘れようっていう自己防衛本能が働いているんだよ。なにがどうなってああなっちゃったんだろう…(中略)…アルバムまで作ったのに売れないっていうのは相当なブラックホールに迷いこんだような、ま、悪夢です(笑)」と自嘲気味に述べている。(wikiより)
母を探しているうちに、育て(芸能界)の親に見捨てられていたのね。
この話と関係ないけど、結婚してしばらくして亭主がベースを買った。
そこに購入者へのアンケートはがきが添付されていて、私は後日、亭主に「ハガキ出しておいたから」と伝えた。
一気に怪訝そうな表情になる亭主。「何て書いたのかな?」
私は満面の笑みで答えた。「気になるアーティスト欄に“ラ・ムー”って書いておいたから大丈夫!」。
亭主は今も「何が大丈夫なのか」が分からずにいるという。
あぁ、流されて陸が見えなくなっちゃったよ。
流されついでに、誰か知っている人がいたらと願いを込めながら質問を……
1969年、TBS系列で“青空にとびだせ!”という30分ドラマを放映していた。
これは、当時大人気だった『ピンキーとキラーズ』が主役として登場していたドラマだった。(と思う)
当時6歳の私は、親が共稼ぎで早朝から深夜近くまで不在。テレビを独占状態だった。
勉強は出来なかったが、『特別機動捜査隊』や『プレイガール』等、小学生であっても何に気兼ねすることなく存分に見ていた。
このドラマ“青空にとびだせ!”は、親と見ても何ら問題のない、明るく賑やかなドラマだった。(と思う)
ある日、このドラマは彼らを乗せたマイクロバスが谷底へ転落。スップモーションのまま次週へとなった。
私はドキドキして翌週を心待ちにした。彼らはどうなったんだろうか?死んだのか?いや、全員死なないにしてもピンキーは主役だから生き残っているかもと、幼い想像力を全開にしてドラマを待った。
で、翌週。ドラマは普通に始まった。
が、ドラマと同時にテレビ横で、滅多にいないはずの両親が取っ組み合いのけんかを始めてしまったのだ。
大袈裟ではなく、当時、四本の細い足の白黒テレビに母親叫び声と共に鮮血が飛び散る。
全日本・新日のプロレスでもここまでの鮮血を拝めるポジションは無いほどに、毎度喧嘩は大ごとになった。私は常に『升席』で砂をかぶりながらの見物状態だった。しかし、この日はブッチャーとタイガージェットシンがマジで揉めての喧嘩状態。黒電話の受話器で殴られ、鼻の形が変わった血だるまの毒母は、殴られても殴られても立ち上がって、ゾンビのように毒父に向かう。理由は毒父の浮気。毒母の手には口紅を付けたワイシャツが握られ「何で別れないのよぉぉぉっ!!」と、にじり寄る。そのワイシャツも毒母の血で、口紅の痕跡など見えもしなくなっている。
寺内貫太郎家の夕食時の情景であって、私は狭い家の中を這うように逃げていたが、この日は双方何時までも引こうとはしない。夜も遅くなって、私は隣の家へ行きレフリーを要請。喧嘩は強引にドローになった。
その日は部屋の隅で毛布に包まっていたが、毒父と毒母の口喧嘩は延々と続いてた。この後、毒母が酒を飲んでDV行為に走るので、私は殴られてる毒母にさして同情もせず、黙っている。
毛布の中でふと私は気が付いた。
「あ、ドラマ見られなかった。ピンキーたちはその後、崖から転落してどうなったんだろう!?」
でも、金が掛かるからと幼稚園も中退させられ、入学直後から小学校でもぼっちを貫いた私に、そのドラマの続きを問う相手などいなかった。私の記憶の中で、この記憶が保管されないまま現在に至る。
ネットで調べても「こんなドラマが放送されていた」と記載があるだけで、詳細は掴めぬままババァになっていた。
で、長くなりましたが、本題です。
誰か、このドラマの続きを知っていたら、教えてください。