最近、ひとりで列車の(日帰り)旅をしている。

二両編成の各駅停車に揺られて、人気のない流れる景色を黙って目で追う。

停車駅は無人駅が殆どで、人も降りない。それが続く。

途中下車も、その時の気分。

 

 

 

 

これ、昭和のいつ頃のものなんだろう?

ここを笑ったり泣いたりと、様々な人たちが行き交ったんだろうな。

 

下車したら次の列車まで1時間から1時間半、待たなければならない。

駅前にはコンビニどころか、人気も野良猫の姿もない。

自分が乗って来た列車を見送る。

右上に見えるのは羊蹄山。

小田急線の鶴巻温泉から小田原に行く風景も好きだな。

 

誰とも話すことなく、かと言って、難しいことを考えることもなく、ただただ列車の揺れを感じる。娘とは行きたいな、また。あと、チワワ奥かな、一緒にいてくれて満たされるのは。あと、この旅にチワワ奥の義父さんがいれば、最高だと思った。ニヒヒ

 

戻ってから、葬儀の予約を入れていた葬儀会社にまたまたまた行った。

お願いしていた葬儀プランの変更をしてもらった。

「直送にしてください」

「ピンクの棺桶は…?」

「いや、もう“もやし”って書いてある段ボールでも何でもいいです」

浮かせたお金で関門海峡への散骨に軌道修正。

数日中にパンフレットが届くけど、これで決まりかと。

いや、市の共同納骨堂があって、そこに入る段取りをしていたけれど、毒母が「私もそこに入る」と意思表明しだして、死んでもなお毒母と亭主とはもう一緒はごめんと逃げ出す段取り。滝汗


残された者がケチでこんなことをしたと思われも困るから、直筆で書き留めておかないとなぁ。
でも、こんな風に騒ぐ奴(自分)に限って、誰よりも長生きすんだよな。チーン
けれども、ヨシエと義父だけはしっかりと見送りたいと思う。ヨシエたちがいなければ私は『親の愛』を知らずに死んだかも知れないから。笑い泣き



ここで誰にも邪魔されずに船を眺めていたい。
(今年3月に行って、人生観が変わるくらいに感動した関門海峡)


別に死にたいという願望なんて皆無。
『死』という言葉に思うのは、毒父が死んでから一貫している。
「二つの家庭と、それにかかわる者たちの人生を、己の身勝手で破壊しつくして、死んでもなお、女房子供らを苦しめる魔物も驚く悪行三昧。やりたい放題やって幸せだよな。死して仏になれるなど思うな。地獄の入り口で待ってろ。私もどうせ行くだろうから、死後の裁きを受ける前に、私に思い切りお前のその面を殴らせろ!」
相手が実の親であっても、赦せる限界はある。
私の周りには怒りのK点越え人物が多すぎだわ。真顔


難病指定(特定疾患)の更新書類、何でこんなに面倒にするんだか。ムキー