さて、ここで数年前の私のことを……

 

 

2014年10月も終わりの頃だった。

突然、弁護士から電話が来た。
「お父さん、亡くなられましたね」
「へっ……?」
訊けば自転車に乗って交差点で突然、大量の吐血。動脈瘤破裂で即死状態だったらしい。まぁ、親子が離れて暮らして、死に目に会えないってのはザラにあると思うが、ここからはきっとザラにないと思う。
弁護士から連絡が来た時点で既に葬儀も終わって、どこかの寺にお骨があって、部屋も親父の弟妹たちが勝手に処分してしまっていたと。
で、弁護士が困って私に相談してきたのは、財産(ってほどじゃないんだが)を前に、兄弟姉妹6人と40年来の親父の愛人がつかみ合いの喧嘩をしているとのことだった。チーンチーンチーン

 


更に更に双方が正当な親父の実子である私や先妻の子である腹違いの兄姉に、財産の詳細を何一つ教えず盗ろうとしていることだった。
「たまさんが正当な相続人なんで、まずはあなたに財産にかかわるものをお渡ししますから」
と、言われて私は電話口で即答

「あっ、いらないです。放棄。相続放棄しますんで。すぐにこの件でのこちら側の代理人(弁護士)を立てるんで、いらんです」と。
「いや、概算でも1000万超えてますから」。
うひょー、あの強欲親父、年金生活でどうやって貯めたんだよっ!?いくつか阿漕なことをしていた心当たりはあるが……滝汗

少し前に離婚を成立させていた毒母は、その一報を聞いて激怒した。金が欲しいとかではない。

「散々、人を泣かせて挙句、即死状態で苦痛もなく死んだことが許せない」

と顔を赤くして激怒していた。取りあえずその夜、家族会議。と、言っても相続人である私の放棄宣言を承諾してもらうものだったけど。

先妻の兄姉は幼いころに親父に捨てられ、かなり苦労をしたと聞いていた。
私が放棄することで、その兄姉で仲良く分けてくれればと父の方の弁護士にも伝えた。

 

ウチだって貧乏だった、本当に。私自身、8歳の頃に親父に愛人が出来て、母親と北海道へ追い出された形。でも、腹違いの兄姉はもっと苦労していたと思う。やっぱ、カッコつける訳じゃないけど、これは私が受け取るべき金じゃない。
翌日、腹違いの兄に連絡が付いて「私、相続放棄するから、苦労した分、好きに使って」と言ったら「いや、俺も妹も相続放棄の手続き始めてるんだ」と。

 


毒父が住んでいた地元にいる兄は、現在進行形でおじおばvs毒父の愛人の戦いを見ていて、この金の権利を主張した瞬間にどちらかに殺されるって真剣に思ったそうだ。
「100万でも200万でも欲しいけど、やっぱ金あっても殺されたらなぁ……」

もう、笑い話や冗談じゃない囁きだった。


この間、おじおばが無茶してあらぬ方向へ話が動いたりもしたけれど、やっと相続放棄ということでこちら側の弁護士が動き始めた。
自分の戸籍と住民票を渡して、書類にサインをする。
「お父さんの住所は?」
「私は知らないんです、兄も。」
「お父さんの本籍地は?」
「いやいや、住んでいた場所も知らないのに、本籍なんてもっと知る訳もないし」
弁護士との話は終始、こんな感じでちぐはぐ状態だった。
「本当に放棄してもいいの?お兄さん、お姉さんが放棄するなら、何の問題もなくあなたに権利があるんですよ」

毒父の部屋を兄にも内緒で片づけたおじたち。その際に実印や通帳もちゃっかり持ち出していて、今も手にしている。
人を疑うことのない私と対極の亭主でさえ

「実印握っているなら、あの人たちなら平気で偽の借用証書(親父が生前兄弟たちから借りたとか)作りかねないね」

と言う。私も同感だった。
普通、身内が何人かいれば、互いの目を気にしたり良心の呵責ってのがあって阿漕なこともセーブするんだろうが、おじおばって金に対する執着心のベクトルが見事なほどに同じ方向に向いている。だから、止めたり諌めたりする者が皆無なのだ。

おじおばたちが金に汚くなったのは、祖母が40年以上前に人に頼まれて実印を貸してしまったら、持っていた田畑(今の価値で数億と聞いている)を全部盗られて、裁判で争ってもそれが戻ることはなかったから。

「おばあちゃん、ちょっとこの実印貸してくれないかな。

ここ、汚れて欠けそうだから、ちゃんとしてあげるよ」

こんな今どきの子供も騙されないような文言で、父方祖母は他人に実印を2時間預けた。実印が戻ったのは、相手側が好き勝手書いた書類に印を押された後だった。本人は知らなかったと言っても、実印を他人に預けると言うことは、もう心臓を預けるようなもの。当時、幼いながらリアルタイムで親戚一同の阿鼻叫喚を見て、私は実印は怖いって刷り込まれた。


毒父が亡くなった時、路上で血まみれで「交通事故(ひき逃げ)?」「いや、何か事件に」と警察も色めき立ったそうだ。まぁ、すぐに司法解剖したら動脈瘤破 裂って死因が出たんで、後は問題なく葬儀が出来たらしいけれど(遺体が戻るまで時間が掛かったらしい)おじおば達、「事件なら、兄を恨んでいる者がいま す。それは北海道の娘ですっ!」って進言したと聞いて、もう笑うしかなかった。笑い泣き
亭主からは

「もしも 江戸時代とかに、お父さんがこんな亡くなり方していたら、かあちゃんきっとお奉行所に引っ立てられて、正座した足の上に重い石を載せられて拷問されたんだ ろうね」

って、何とも複雑な表情で言っていた。

亡くなったって一報があった夜、私は家族を誘って「精進落としだ」って妙な口実で回転ずしに行った。悲しくもないから涙も出なかったし(私も毒親も亭主も娘も)でも、なんとなくみんな口が重くて無口で寿司を頬張る。
少し先にボックス席には仲のよさそうな家族が笑いながら食べていた。
「ねぇ、私が小学校1年の時、確か星の綺麗な夜、家族で街中で天ぷら食べに行ったっけね?」
私の言葉に毒母は怪訝そうな顔をしながら、口からはみ出たボタンエビのしっぽをつかみながらしばし固まった。
「そんなこと、あったっけ?私は覚えてない。それよりお前が5歳頃に家族で最初で最後、ラーメンを食べに行ったよね?」
母からの問いに今度は鉄火巻きを手にした私が固まった。
「……記憶、全くねーし」
その会話を亭主と娘が気まずそうに聞かないふりをしていた。そうだ、家族で水入らずで食事した記憶自体、実は私たち離散家族にはなかったのだと今更ながらに露見してしまった。

 

亡くなる前年、親父が大きな交通事故の被害者になって、私まだ離婚前の毒母と親父の部屋に立ち入ったが、その部屋からは水戸黄門だってそこまで行ってないだろうという程の温泉や有名観光地や中国や台湾、シンガポール……様々な国を愛人同伴で回ってた写真が(大袈裟ではなく300枚は軽く)出てきた。その中にはハメ撮りまであって毒母はショックでその場で倒れた。私は父親への心が完全に死んだ。
当時の写真、すべて年月日が記載されている。
「お前らにやる金なんてない」と、女でひとつで私を育てていた毒母が、中学の修学旅行の費用が工面できず唯一、親父に泣きついた時の親父の返事だった。

金が無くて私は、毒母とリヤカーで廃品集めて燃やして生計を立てていた。

死んだ毒父はその頃、愛人と日本&海外旅行を堪能しまくってた。私が経済的理由で中学の修学旅行へ行けなかった時、白いくず米をご馳走だと食べていた時、この男は人生を堪能していた。写真の中でふたりが酔って半裸で笑ってた。
この時、私は内心思った。たぶん、この男が死んでも私は絶対に泣かないであろうと。その信念は今も変わることはない。

 

後日、家裁から相続放棄を本当にするのかとの照会があった。私は速攻でそれにサインをして家裁に送り返した。放棄理由を弁護士はしっかりと記載してくれた。公文書に自分の本音が記載されただけでも良かったと今も思う。