『海蛍』は特別な趣向を持った方に向けられた不定期連載小説です。

お付き合いの「いいね」は必要ありません。

次回、普通のブログupの時に、またお付き合いください。

 

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あの日、真一の背で薫が願い出たこと、それは……

『この身体、検体としてお役に立ち遺骨になったら、その骨を砕き粉にして、
君が行けるであろうできるだけ南の海に撒いて欲しいのです。
紀州でも四国でも鹿児島でも、とにかく1センチでも1ミリでもいい。
南の海に骨を撒いて欲しいんです。あの人の眠る南洋の近くに』


「紀州の海は綺麗で落ち着くかな」
「いや、どうせなら鹿児島まで行こうか」
安置所を出て皆が意見を出し合う中、真一ははっきりと言った。
「先生は私が責任をもって日向大佐の眠る南の海へお連れする」
その言葉に、誰も反対する者などいなかった。
真一の潔い決定に皆が笑顔になった。


誠がクロエに事情を話すと、クロエからチャーター船を出すとの申し出があった。
薫から託された金では足りず枇杷の会の者達も金を出し合ったが、遠距離であり
そこへ船をチャーして行くには、想像もつかない金額が必要となった。
南洋へ行くのだと言い出したものの、金の目途が立たず立ち消えになりそう
だった旅は、クロエの登場により一気に現実味を帯び進み始めた。
春目前、薫は検体の役目を終え、小さな骨箱に納まり真一の胸に抱かれ火葬場を出た。
遺骨になった薫は、真一の家で旅立ちの時を待つこととなった。


激務を終えて、誰もいない部屋に戻ることに何の疑念もなかった真一だったが、
小さな箱に納まった薫が待っていてくれると思うと、家路へ向かう足は軽くなった。
外食ばかりで家事などしなかった真一だが、時間を作り週に何度かは自ら飯を炊き、
薫が教えてくれた味噌おにぎりを作り、薫に供えた。
正確に分量を量り作っても、薫の味に勝ったことはなかった。
いつもひとりフンと苦笑しながら、指に着いた味噌を舐めた。


そして、ついにその日がやって来た。
真一ら枇杷の会のメンバー全員が揃い、アメリカに渡りクロエと会った。
「ドクター、長い間、本当にお疲れ様でした。
いよいよキャプテン・ヒュウガと会えるのね」
クロエは泣きながら笑った。
車椅子のクロエにはチャーター船での旅は無理だと、クロエは港から薫を見送った。
船は静かに海原へ向かう。


幾日かの船上泊があり、何日も真一らは四方凪の海を見続けた。
今、この船舶の下にも多くの戦争犠牲者が眠っているのかもと思うと、切なさで
胸がいっぱいになった。
疲れが出たのだろうか。
真一は胸苦しさを覚え、ひとり船内の簡易ベッドに横になった。
波の音を聴きながら、苦しさと切なさが波のように去来する。
もうすぐ目的の場所に到着する。
それまでに体調を整えなければ……
焦りの中、真一はいつの間にか眠りについていた。
そして、あの戦火の悪夢を見た。

 

映画を見たなどという、傍観的なものではなかった。
自分は確かにそこにいて、軍人として生きていた。
恋愛感情など誰にも持ったことなどなかったから、身体を交える体験も未だない。
なのに、身体はその美しかったひとを抱き、熱を放出した生々しい快感までをも
残していた。
生前の薫の話が脳裏に残り、それが自分の中で夢として再現されたのだろうと、
汗を拭いながら無理やりに思い込んだ。
ただ、どこかで会ったような、あの顔が忘れられずにいる。
無垢な美しさを自分が穢してしまったという、後味の悪すぎる気怠い罪悪感だけが
いつまでも残った。
あの人に嬉しいことがあればきっと、自分には想像も出来ないくらいの素敵な笑顔に
なるのだろうと漠然とだが思った。
着衣を整え、呼吸を整える。
薫の遺骨は既に甲板上でその時を待っている。
真一は毅然と上を向き、表へと出た。


チャーター船がエンジンを止める。
船員が錨を下す。
「ここがアメリカ海軍と日本海軍が戦った場所だ。
政府の公文書情報で間違いはない。
1945年8月14日、日本海軍の戦艦は確かにここに沈んでいる」
凪の海に船長はそう宣言した。


皆が薫の遺骨を順番に抱きしめる。
骨箱を開け粉にされた遺骨を手ですくい、碧い波間にサラサラと落としてやる。
粉となった遺骨は静かに静かに深海めがけて沈んでゆく。
最後の遺骨を瀧田が流し終え、真一は薫が残したあの菓子箱を開けた。
「これも……」
真一が万年筆を、戸籍の写しを、そして日向からの手紙をとひとつひとつ薫の元へ
送る。そして残った空き箱も流そうとした時、箱の底にひっくり返っていた小さな
厚めの紙を見つけた。
それを手にして表に返した真一の表情が、一気に強張った。
セピア色の一枚の写真。
『橋本薫 衛生兵として昭和18年海軍に入隊』
と、書かれていた。
それは海軍時代に唯一、撮られた薫の写真だった。
つい先ほど、夢の中で恋をして犯し、最後に足にしがみつき許しを乞うた、
美しい人の顔が確かにそこにあった。
「これは一体……」
写真を持つ手が小刻みに震えてくる。
こんな馬鹿げた、非科学的なことなど自分は絶対に信じたりはしない。
しかし、自分の身体の奥は今も薫を抱いた感覚を忘れることなく、その写真を見て
恥ずかしいほどに疼く。
「三上君。写真を……」
はっと我に返った真一は最後に残った写真を水面に落とす。
波と共に揺らいでいた写真は、波をかぶり次第に水を含みやがて、そこにいる
皆に手を振るかのように左右に揺れながら海の底を目指し沈んで行った。
真一は不思議な気持ちのまま、薫のすべてを見送った。
今はもう、泣くものはいなかった。
やっと薫の思いが叶い、皆が安堵した。

 

『お、れ……昔から不器用で、好きって言えたら……きっとお前と、
仲良く親友として死ねたか、も。
もしも、生まれ変わったら俺……お前の、ため、に、何でもする。
お前がよろこ……ぶこと、絶対にするか、ら……』
真一は夢の中の絶叫を生涯、忘れることはなかった。

 

*******


薫は真っ暗な音のない空間を、手探りで歩いていた。
歩けないほどに弱っていたはずなのに、足取りは軽く動くことに苦痛はなかった。
「薫!」
闇の中から声がした。
懐かしい姉、敏子の声だった。
「姉ちゃんっ!?」
失ったはずの声が姉の名を呼んだことに薫は驚いた。
小さな小さなひとつの光が優しく広がり、敏子の姿になった。
若く美しい姿だった。
「敏子姉ちゃん!」
薫は敏子に飛びついた。
「姉ちゃん、痛い所は、苦しい所はないのか?大丈夫なのか!?」
敏子は今まで見たこともない美しい微笑みをくれた。
「橋本」
闇の中でまた、誰かが自分を呼んだ。
「田中?」
小さな光は次に田中の姿を映し出した。
「田中、苦しくはないのか?痛みは?」
薫は田中の頬や肩に触れた。
田中は今までに見たこともない血色の良い笑顔をくれた。
「橋本さん」
次の光はミツの姿を照らし出した。
「ミツさんっ!あ……、ひとりで死なせてしまって……ごめんなさい!」
薫はミツの手を握りながら深く頭を下げ、何度も詫びた。
ふと、顔を上げるとその横には、写真で見たことのある特攻隊で亡くなったミツの
孫がいた。彼は薫に向かって万感の思いを込め感謝の敬礼をしてくれた。
薫も姿勢を正し、敬礼でそれに答えた。
ミツは孫に寄り添い幸せそうに微笑んだ。
「カオル!」
次の光はアランを映した。
「あぁ、アラン!私は日本に戻って医者になれました」
アランは嬉しそうに頷く。
満たされた気持ちの中、薫は闇を歩き続けた。
闇に光点がポツリポツリと増えてきた。
揺らぐ淡い光を見ながら、薫はそれが何であるかに気付いた。
無数の海蛍が光を放ち道を作っていたのだ。
そこが何処で何が起きるのかは分からないが、ただ、戻ることの許されない道で
あることだけは理解できた。
薫は海蛍の作った道を歩く。


「橋本!」
無数の海蛍の向こう側から、焦がれ続けた人の声をついに薫は聴いた。
「日向大佐っ!!」
駆け出そうとした足が止まる。
薫の中にあった嬉しさは、瞬時に消え去った。
そうだ、日向は若くして天に召された。
しかし、自分はこんなにも歳を取ってしまっていた。
歳を重ねることに不満も嫌悪もなかったが、日向の前にだけは出たくはなかった。
この変わり果てた姿を見せたくはなかったのだ。
光の向こうから日向がこちらに向かって歩いてくる。
背筋を伸ばし、しっかりと前を向き。
いやだ、今の自分を見せたくない、見られたくはないっ!!
薫は頭を抱えるように、その場にしゃがみこんでしまった。
日向の気配が近づいて来る。
薫は日向が自分に気付かず通り過ぎることを祈り続けた。
「橋本……」
頭上で名を呼ばれた。その声は確かに日向だった。
けれども薫は何も言わず耳をも塞ぐ。
「橋本、俺がどれだけ待ったと思うんだ……」
日向は薫の肩に手をかけ、薫を立たせた。
「さぁ、顔を見せてくれ」
しかし、薫は絶対に顔を上げようとはしない。
「できませんっ!それだけはできません」
日向は首を傾げ困った顔をする。
「この日が来るのが長すぎて、私を嫌いになったか?」
日向の言葉に薫は咄嗟に顔を上げ叫ぶ。
「私が日向大佐を嫌いになるなんてあり得ません!!」
しまったと思いながらも、日向の顔を見た。
あの時と同じ端正な姿に目を奪われる。
余計に自分の老いた姿を、この人にだけは晒したくはなかった。
日向の手から逃れようとするが、日向は薫の肩を掴んだその手を微塵も緩めようとは
しなかった。
「ダメなんです、お願い、お願いですから見ないでください。
私は、私はもう、あの時の私ではないんです……」
「さぁ、落ち着いて。私の瞳をよく見るんだ。目を逸らさずにしっかりと」
日向に逆らえるはずもなかった。
薫は意を決してその顔を上げ、日向の瞳を見つめた。
逢いたかった人にやっと逢えた喜びよりも、老いた姿を見られた悲しみが勝る。
海蛍たちが自分と日向の周りに集まり、弱かった光は一気に神々しさを感じる
程に輝きを放つ。
「あ……」
日向の瞳の中に映る自分の姿は、日向と出会った頃の若い自分だった。
驚き右手を見る。
失ったはずの四指はいつの間にか、日向の軍服の裾を掴んでいた。
「逢いたかった……
どこへも行かずに、お前が必ずここへ来ると信じて闇の中でずっと待っていた」
日向は薫を強く抱きしめた。
「私も逢いたかったです。
でも、日向大佐が繋いでくださった命を無駄にできず、多くの人たちに支えられ
ながら気付けばこんなにも時が経って……」
揃った指で、若き力で薫は日向にしがみついた。
「あの、日向大佐。私たちはこれから何処へ?」
「何処へ行くかは私にもわからない。
けれどもひとつだけはっきりしていることがある。
それは……もう、何があってもお前と離れることはないと言うことだ」


海蛍が道を作る。
遥か彼方へと続く、光り輝く道を。
「一緒に歩んでくれるか?」
「はい」
手をつなぎ、ふたりは歩き始めた。
誰にも邪魔されることなく、初めて自ら選んだ道を力強く、どこまでも。

 

 

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「せんせぇ、おおきなき、あります。
うーんとたかいところに、おれんじいろの、たくさんありますっ!」
真一の車から降りた詩音は、古ぼけ塗装のはげたベンチの横の木の先端を指さし
乱舞する。
「待っていなさい」
詩音を車に乗せ、いいと言うまで絶対に出て来ないことを約束させる。
詩音は実を見ながら「はい」と大きな声で返事をした。
周囲を見回し、朽ちた枝を見つけると、真一はそのオレンジ色の実に向かって
枝を投げた。
二度、三度と詩音のため息の中、六度目に枝は実の近くにぶつかり、たわわになった
実はどさりと真一の足元に落ちてきた。
「せんせぇ、くるまからでてもいいですか?」
真一は落ちた実の泥を落としながら頷いた。
「これは、なんですか?」
初めて見る甘い香りの実に、詩音は目を輝かせている。
「これは枇杷の実だ」
「び、わ?」
「そう、枇杷だ。ひとりで寂しくないように、誰かに何かをされても負けないように
みんなで肩を寄せ合いながら生きているんだ」
真一の言葉に詩音の瞳は輝きを増す。
「ぼくも、せんせぇも、び、わ?とおなじです。
いっしょだから、さみしくないです!」


それは以前、薫と共に種を埋めた枇杷が芽吹き葉を茂らせ、実をならせたものだった。
久々の休暇を利用して、真一は薫と歩いた施設近くのベンチに来ていた。
そばには不思議な縁(えにし)で結ばれた小さな詩音が、真一の剥く枇杷の実を
じっと見つめている。
「種に気を付けて。種は噛んでも飲んでもいけない」
「はい」
詩音は枇杷の実に口を付けた。
優しい甘さが口いっぱいに広がる。
「おいしいです!とてもおいしいです、びわです」
そう言う詩音の口に枇杷の汁が流れてきた。
真一はその汁をそっと指先で拭った。
枇杷の木は日陰を作り、真一と詩音を日差しから護っていた。
「いいか、詩音。よく覚えておくんだ。
これが幸せと言うのもなんだ」
詩音は真一の言葉の意図が分からず、しばし黙るがすぐに笑顔になって言った。
「せんせぇ、しあわせは、とぉーってもあまくておいしいです!」


真一は声を上げて笑った。


fin


Special Thanks to ちべた店長さま
Special Thanks to 優祈さま
Special Thanks to 長きに渡り読んでくださり、応援してくださった読み手のみなさま
ありがとうございました

 

2015,11,17~2017,3,5

2017,3,5 16:20 Completion.

From たま

 

 

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ありがとうございました。これでおわりです。

最後はちべた店長&優祈さんのお話にリンクしました。

読んでいない方は、まだ遅くはないです!!

下矢印ここからどうぞ。次回は、優祈さんのサイトをご案内です。