『海蛍』は特別な趣向を持った方に向けられた不定期連載小説です。

お付き合いの「いいね」は必要ありません。

次回、普通のブログupの時に、またお付き合いください。

 

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白み始めた空を、部屋の窓から薫はひとり見ていた。
四方を山が囲む緑の向こうに昔、駅があり線路があった。
日向と共に歩んだその道も、今は廃線になり駅舎も消えた。
天気のいい日には毎日、駅舎跡地まで歩くのが薫の日課で、朝靄が消えゆく様子を見て
支度を始めようとしていたその時、施設2階の自分の部屋を見上げる者を見つけた。
「……三上君?」
薫は慌てて窓を開けた。
真一は軽く会釈をすると右手を掲げた。
その手に握られていたスーパーの白い袋が、ぎこちなく揺れた。


数分後、外出の支度をした薫が施設の玄関から出て来た。
真一がなぜここに来たのかを察した薫は、
「これから日課の散歩に出るんです。一緒に行きませんか?」
と、真一を誘った。


何年かぶりに再会した薫を、それとなく視界に捉えながらたわいもない話を
しながら歩く。
大学を去った頃よりも、更に小さくなり痩せたと思った。
薫は時折、立ち止まっては真一に悟られぬよう腹を押さえ顔をしかめている。
施設に戻ることを勧めても薫は納得はすまい。
やきもきする間に駅舎跡にある、塗料のはげた古い木製ベンチが見えてきた。
どうやらあれが薫の休憩ポイントらしい。
時間をかけ、足並みを揃えながらやっとベンチに着いた。
薫の顔色は、明らかに良くはなかった。
「失礼します」
真一はそう言うと同時に薫の腕に触れ脈をとる。
呼吸の乱れと顔色の悪さの一因は、この不規則に刻む不整脈なのだろう。
「ここで少し休みましょう」
薫は黙って頷いた。


次第に陽が高くなり、朝靄が消えていく。
鳥のさえずりを聴きながら、ふたりは真一の持参した枇杷を頬張る。
薫はそれを美味そうに口にした。
「忙しいのに迷惑をかけてしまったね」
枇杷の汁で濡れた指先を、ハンカチで拭いながら薫は言った。
「大橋先生が仰ってました。
長男の言うことを聞いてくれないのなら、後は次男の出番だと」
薫は、その言葉に愉快そうに笑った。
「癌は腹腔内に拡がっている。心臓もそう長くは持たないだろう。
私はここで最期を迎えたいと思っているんだ。
毎日、いい年になって覚えた念仏を唱えながら、あの人と歩いたこの道を
歩いているよ。
でも、嫌われてしまったのかな。
あの人はかなかな私を迎えに来てはくれないんだ。
こんなにも祈りながら、全ての準備を終え待っているというのに」

これまでに得た地位も名誉も資産と呼ばれる物、全てをかなぐり捨てて
身一つで思い出の土地に籠り、ただ日向の迎えを待っている薫の姿に真一は
胸の痛みを覚えた。
それも薫の選んだひとつの生き方なのだろう。
しかし……


「枇杷の会の連中はみんな第一線で頑張っています」
「あぁ。誠君の病院に検査入院した時に救命に行った者達を見た。
みんな生き生きとしていた。
薬も機材もしっかりと使いこなしていたし。
自分がヨードチンキを手に走っていたことが、恥ずかしくなった」
「私と瀧田は大学に残ってます」
「話は聞こえてきていたよ。若くて有能な心臓外科医がいると」
「私たちにもご恩返しをさせては貰えませんか?
このまま先生をここへ置いて帰るということは、私も瀧田も他の者達も皆が
先生と同じ悪夢を見続けるんです。
ヨードチンキを手に、何もできないままの途方に暮れる……
先生を苦しめる同じ悪夢を私たちも」
手のひらで小柄な枇杷の実をを転がしていた薫の手が止まる。
「医師として私たちを育て送り出したのならば、その教え子たちがしっかりと
医学者として頑張っているのかを先生は見届け、時に叱咤する義務があるはずです」


一陣の風が二人の背を押すように、強く吹き付ける。
薫は瞳を閉じてしばし考え事をしているようだった。
やがて静かにその目を開くと、真一の目を見ないままに言った。
「大学病院にお世話になります。
たぶん、今回入院したら私はもう二度とここへは戻ることはないでしょう。
三上君にはお願いがあります。

これから私が言うことを厳守して欲しいのです。

私は入院後、如何なる延命処置をも拒否します。
ある程度の治療行為は受けますが、その治療行為、特に手術などを行う場合は
どうか若い医師たちにその機会を存分に与えてあげて欲しい。
食べること・飲むことは私の身体の要求するままにしてください。
私の身体が生命維持に必要な動きを弱めて来た時は、それに逆らうことなく
治療は中止してください。
そして、私が亡き後はこの身体は大学へ検体します。
腹腔内に拡がった癌とは、どのような物なのかを学生たちに見せ触れさせ考える
機会にして欲しいと……
それを約束してくれるのならば、私は君の大学病院でお世話になります」
しばしの間があった。真一は言葉を探した。
けれども、そんな都合よく自分も薫も納得できる言葉など、あるはずもなかった。
「ありがとうございます。
全力で先生のお世話をさせて頂きます」
真一は項垂れるように頭を下げた。


帰ろうと立ち上がった時、薫は手にしていた枇杷の種をベンチのそばの土を手で掘り
埋めようとし始めた。

土に塗れた薫の手が、なぜか哀れに思えてならなかった。

それはあたかも長く生きた大木が、己の身体を削って新たな命を息吹かせようと
しているかの光景に真一には見えた。
真一も並び、一緒に手で土を掘った。
泥まみれになりながらも、ふたりは種を埋めた。


帰り道、真一は薫を背負い施設へ戻った。
大学で自分を護ってくれた恩師の身体は小さく軽くなっていた。
背中で時折、声を殺しながら苦痛に耐える乱れた息を感じる。
一刻も早く病院へ連れて行きたいとの思いはあったが、薫は苦痛の中でこの土地との
思い出に別れを告げていることに気付き、真一は歩幅を小さく狭くしたまま時間を
かけて施設まで歩く。
「三上君」
「はい?」
「さっきの話なんだが、もうひとつお願いの追加があるんです。
君にはかなり迷惑をかけてしまうと思うけれど、私にとっては大切なお願いです……」
薫は真一の耳元で何やら話しかける。
真一は足を止め、薫の言葉に耳を傾ける。
「……わかりました。確かに今、先生と約束をします。
私は何があっても、その約束を守ります」
真一の力強い言葉に薫は嬉しそうに微笑む。
真一が泣いていることも気付かずに……


入院に必要な最低限の身の回りの物を鞄に詰め、大学で連絡を待っていた瀧田に
携帯電話で詳細を話し準備を進めてもらう。
施設に暫く入院する旨を申し出て許可を貰うと、真一は車に薫を乗せ京都に向かって
アクセルを踏み込んだ。薫は何も言わず終始、流れる景色を黙って見つめていた。

 

夕方近く、真一の車は大学病院へと到着した。
玄関先で待機していた瀧田と看護師が車椅子を向けた。
言葉なく瀧田は薫に深く頭を下げた。それに薫は小さく頷く。
薫は抵抗も遠慮もなく、それに乗った。
「お部屋へ案内してください、お願いします」
看護師はすぐに薫と共に病棟へ消えた。
「橋本総合病院から検査データが届いてるわ。
あと1時間でカンファレンスが始まるから」
「あぁ、すぐに着替えて行く」
真一の言葉を聞いて足早に病棟に戻ろうとした瀧田に
「瀧田!」
と、思わず声を掛けた。
「ん?」
「済まな……いや、ありがとう」
真一の言葉に瀧田はニッと歯を見せて笑うと、病棟に消えた。

 


その後、カンファレンスの内容は、真一にとって最悪なものとなった。
示されたレントゲン、MRI画像にそこにいた誰もが、絶望的なため息を吐いた。
薫の体内の様子を数値化した用紙を手に、積極的治療行為を唱える者は皆無。
癌に関しては、腹膜内に拡がり外科的な対応は無理であるとの結論が、担当教授から
早々に出された。癌に関して言えばあと半年前後持てば……との、外科の見識だった。
心臓に関しても、手術自体はそう難しいものではないが、薫の癌の進行と年齢を
併せ考えると手術を行うべきではないとの意見が心臓外科側からも出された。
「あの、橋本先生からの今後の治療方針の希望を伺っているのですが」
話しが行き詰った時、後方から真一が挙手をしながら声を上げた。
真一は薫に託された思いを、その場で言葉にした。
薫が治療を受けにではなく、自らの身体を後進のために差し出そうとここへ
来たことを、真一の言葉で皆が知った。
「では橋本先生の意志を尊重した、治療と看護体制を敷くということで。
主治医は三上君……いいね?」
真一は立ち上がり
「わかりました」
と、答えた。いや、答えるしかなかった。


誠とも相談し、薫に最上階の個室を用意したが、薫はそれを頑なに拒否して
心臓外科の大部屋と呼ばれる四人部屋に納まった。
皆は薫が遠慮してのことだと思っていたが、部屋や病棟の者達と明るく楽しそうに
話す薫の姿に、それが最良の選択だと思えた。
薫の素性を知らない者たちは、何事にも温厚な薫を『橋本のじいちゃん』と呼び、
薫もニコニコとその呼びかけに答えた。
真一や瀧田など自分の教え子たちが院内で仕事をする様子を見ながら、薫はいつも
嬉しそうに、誇らしげにそれを見つめていた。

 

落ち着いたかに見えたある日、手術室から出て来た真一を待ち構えていたかにように
看護師が駆け寄って来た。
「橋本さんの容態が!」
真一は階段を駆け上がった。
ナースステーション前に飛び出してきた真一に、病棟の看護師が
「615号室の個室に」
と、言うと真一はまた走り出した。


「三上君……」
心音のモニター音の響く室内で、その気配で振り向いた瀧田が立ち上がる。
「何があったんだ!?」

「呼吸が……さっき島津教授が指導しながら研修医が気管切開をしてくれたから、
今は落ち着いて……」
薫は機械に合わせて規則的な呼吸を繰り返しながら眠っている。
真一はその姿を茫然と見つめる。
「これって延命措置じゃないのかって思ってるんでしょう?
今、問題なのは自発呼吸だけであって、呼吸さえ維持すれば橋本先生はまた意識も戻るし
これも外せるって結論になったの。
島津教授はちゃんと橋本先生の意を汲んで、この処置を研修医にさせた。
私は正しい選択だったと思う」
正しいと言い切りながらも瀧田の表情は、辛そうだった。
真一はこの期に及んで初めて、薫の死を意識した。

 


二週間後、状態も落ち着き、薫は車椅子での移動は可能になったが、
気管切開により声を失った。


2017,3,3

 

*****

あぁ、本当にもう少しで終わるんだ。

 

今は気管切開しても『スピーチカニューレ』というものがあって、患者さんは大変でも

声は出せることも可能らしいです。

医学に関する話をタラタラと書いていたら、医学の方が追い越していくなんてことも

ありそうです、自分の場合だけど。チーン

最後、特段あっと驚く展開もなにもないです。

ただ、ちべた店長の作品で見た橋本のじいちゃんをこんな風に殺してみたいって

思いがあり、それに向かってここまで来ました。ほんとそれだけ。

しかし、よくぞ成り行きでここまで来たわ。

 

明日は毒母を連れていよいよMRI検査。

どうなるんだろう。小説のように自分で筋書きを描けたらと思う。

チワワ奥、校正よろしくお願いします。

目が痛くてこれ以上は諦めました。ごめん。滝汗