『海蛍』は特別な趣向を持った方に向けられた不定期連載小説です。

お付き合いの「いいね」は必要ありません。

次回、普通のブログupの時に、またお付き合いください。

 

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そこにいる誰もが言葉を持たなかった。
戦争をここまで身近に感じたことがなかった。
そして、わが身を犠牲にして南洋に沈んだ日向を今も愛し続ける薫に嫌悪感を抱くものは
誰一人としていなかった。


「本当に愛してたのね、日向大佐のことを深く……」
水沢の言葉に少しずつ皆が現実に戻り始める。
「どうする、俺たちこれから?」
意味なく指先を動かしながら山城が誰ともなく言った。
「年齢的に俺たちが卒業と同時に橋本先生も退職だよな。
俺、橋本先生みたいに立派な志はまだないけれど、あの先生をこれ以上泣かせたくは
ないと思った……」
頑ななまでに薫を拒否していた桜田がポツリと呟く。
「ねぇ三上君。あなたの疑問ってのはこれで解決したの?
今の橋本先生の話で何もかも納得ができたの?」
瀧田の突然の問いかけに、真一は表情を崩すことなく言った。
「私は医師を目指してこの大学に入ったんだ。
あの人の生きざまを私がどうこう言う権利などないだろう。
私が疑問を抱いたのはただひとつ。
あの人はなぜあんな風に穏やかにいられるのかだった。
今回の授業で答えは得られたと思っている。
今後私は橋本先生を恩師として、徹底的に学びを乞う。
私もまた、あの人に託された理想や理念を受け継ぎたいと思う」
そう言い終え顔を上げた先には、力強い瞳を輝かせた仲間たち。
「おい三上。お前だけかっこよくなんてさせねぇぞ」
相沢が笑う。
「私たちはこの三人を忘れてはならない
彼らの大いなる理念は、医学のみに囚われることなく後世に継承していくとが
恩恵を受けた私たちの義務であり責務なのである
彼らの思いは永遠に生き続ける」
記憶の良さでは誰にも負けないであろう桜田が、薫の言葉を暗唱した。
「橋本先生は俺たちの先生、それでいいな」
相沢の言葉にもう何も異議を唱える者などいなかった。皆が力強く頷く。
「卒業するまでに橋本先生から知識を絞り取ってやるんだ。
そして先生が言っていた『永遠に生き続ける思い』ってのに、俺たちも加わりたいよな」
相沢が何気なく言った『俺たち』の言葉に、真一は不思議な心地よさを覚えた。
今までは何をするにも一人で良かったと言うのに……
薫不在の教室で、暗くなるまで学生たちは話を続けた。
薫のこと、自分のこと、家族のこと、勉強のことと話題に事欠くことはなかった。
真一に初めて同じ志を持つ仲間ができた瞬間でもあった。

 


薫は自宅であるマンションに戻り、闇の中に身を置いていた。
自らの生い立ちを語り、同性である日向への思いをも隠さずに学生たちに伝えた。
同性愛者として軽蔑され大学を追われることも覚悟はしていた。
「どうやら私は長生きし過ぎたようです」
思い出の籠ったあの万年筆を手に、薫はため息交じりにひとり笑った。
クロエとの再会以降、大学の講師として多くの学生を医師として世に送り出した。
病院も誠が後継者となり、今は何の不安もない。
今度こそ日向と行った温泉地の老人施設で静かに暮らそうと覚悟もできた。
「早く私をおそばに呼んでください」
そう言い万年筆を握りしめた時だった。
玄関チャイムが鳴った。
最初は遠慮がちに。薫はそのまま放置したが、ドアの向こうでは中に薫がいるであろう
絶対的な自信を持ったまま次第に忙しなくチャイムを鳴らす。
渋々薫は部屋に明かりを灯す。
「はい」
薫は泣き疲れた表情を引き締め扉を開けた。
そこにはスーパーの袋を手に提げた真一が立っていた。
「三上君……」
不意を突かれた表情の薫に、真一は袋を差し出し言った。
「枇杷を買って来ました」
「枇杷……?」
「先生は約束されたでしょう。『今度、ゼミのみんなで枇杷を食べよう』と」
そう言い終えたと同時に、扉が全開になり薫は息をのんだ。
「橋本先生、来ちゃいましたっ!!」
ゼミの20名が廊下に並んでいる。学生たちの手には枇杷。
「みんな……」
「枇杷食べましょうよ、枇杷っ!!」
山岡が飛び切りの笑顔で枇杷の袋を掲げた。
真一が澄ましながらも微かに微笑む。
笑っているであろう教え子たちの顔が、ゆらゆらと歪んで見える。
自分は何一つ失ってなどはいなかった。
日向はこんなにも愛おしい教え子たちとの出会いまで用意してくれていた。
「私は、私はっ……」
薫は玄関先で蹲り言葉を途切らせた。

 


そう広くもない賃貸マンションの薫の部屋に20名の学生たちが入りワイワイ楽しそうに
騒ぐ。肩を寄せ合い座り枇杷を食べる者、本棚の前で興味ある書籍を手に目を輝かせる者、
あらゆる入れ物を使い取りあえずコーヒーを淹れ手渡しをしていく者。
薫はキッチンに立ち炊飯器だけでは足りず、鍋釜を全て出し飯を炊きながら味噌に
味付けをしていく。横に真一も立ち、薫から指示を受けながら正確に分量を量り味噌を
焦がさぬようヘラで丁寧に煎る。
「三上君のその姿……」
炊きあがった飯の湯気の向こうから瀧田が笑う。
「ごめん、馬鹿にした訳じゃないの。
手際を見ていたら、確かに心臓外科医が天職なのかなって思えて」
「え、もしかしてこれがあの話にあった、ミツさんの味噌おにぎり!?」
覗き込む山城を気にかけることもなく
「ご馳走になったことはあるが、作る方に回ったのは今回が初めてだ」
と、言いながら真一は丁寧にヘラを動かす。


薫は炊きあがった飯を茶碗に入れると、左手で器用に茶碗を動かし飯を丸めていく。
薫の手で転がされた飯は程よい大きさと硬さになってくる。
誰が誘うわけでもなかったが、薫を中心に学生たちの輪が拡がる。
皆でおにぎりを作りながら、味噌を塗す。
「馬鹿!換気扇回してから焼けよっ!!俺たちを燻製にする気かよ」
「ははは……しょうがねぇなぁ」
薫がここへ越してきて20年以上が過ぎていた。
初めての来客が彼らであり、部屋に笑い声が響いたのもこの日が初めてだった。
「いただきます!」
「うめぇ……」
「何か昔、おばあちゃんの家で食べたような、懐かしい味」
「くそっ、この味、三上だけがここの誰よりも先に知っていたのかよ」
「私は成り行きで食べただけだ。で、成り行きで……美味かっただけだ」
「ははは……」

 

ほんの数時間前、薫は全てを打ち明けた自分の居場所が大学にはないだろうと

思っていた。
日向によって生かされた命を使い、この世での役目も終え静かに第一線から退こうと
決意もした。日向のことを話してよかったのかだけは、判断が付かずにいたが、
後悔はなかった。
今こうして自分の部屋で肩を寄せ合いながら、ミツの味噌おにぎりを頬張る学生たちを
見ていると、話したことが無駄ではなかったことを実感する。
日向の命が、思いが、若い世代に確実に拡がって行く。
この日集まった学生の誰かが、薫を囲むこの同期メンバーを『枇杷の会』と命名した。
「枇杷は互いを思いあうよう身を寄せ合いなっています
私たちは弱さを補うためではなく、手を差し伸べる者、差し伸べられる者のいる幸せを
感じられる枇杷でありたいですね」
そう言うと薫は枇杷の実の薄皮を剥ぎ、黄橙色に熟したその実を口にした。
薫の口角から甘い匂いの汁が、指先を伝い流れ落ちるのを無意識に見ていた真一は
何とも説明のつかない胸のざわつきと痛みを覚えた。
「この人は……?」


「おい三上。お前、枇杷の汁が床に落ちてるじゃねぇか」
山岡の言葉にハッと我に返った真一は、慌てて自分の粗相を拭き取った。
「スキのない寡黙で冷徹な男のイメージしかなかったんだけどな」
「でも、三上君がきっかけで勉強に追われる私たちが、こんな風に仲間って言い合える
ようになったんだもん。ありがとう、三上君」
水沢の言葉に真一は無言のまま手に残った枇杷を頬張った。

 

このメンバーは以降、学内の誰もが羨むほどの結束力を持つ仲間となった。
あの日の薫の告白を誰一人、他言することもなく薫の名誉も未だ守られている。
薫の伝手で橋本総合病院への見学も実施された時は、出迎えた誠が驚きの表情をした。
一瞬だったが誠には目の前の薫が、自分を助けようと奮闘していた若い頃の姿に見えたのだ。
大きくなった病院から薫を追い出してしまった思いが拭えなかった誠だったが、学生たちと
幸せそうに微笑む薫の姿に、誠は長年の心の痞えが取れた気がした。


学生たちは真剣に院内を見学し、疑問があればすぐさま誠に質問としてぶつけた。
単なる物見遊山で来た訳ではないことを肌で感じた誠は、学生たちを中庭に連れ出した。
「誠君、これは……?」
柔らかな日差しに招かれるかのように薫は一点を見つめ歩む。
そして、純白の壁の上に掲げられた銅板を眩しそうに見つめた。


『この病院は絶望を知らぬ者に、門扉を閉じることはない。

誰よりもこの町を思い惜しみなく愛を与えてくれた日本人ドクターカオル・ハシモト
そのカオルを自らの命と引き換えに救った キャプテン・ヒュウガ
医師としての理念を命尽きるまでこの町に捧げた ドクターアラン・マイヤーズ

私たちはこの三人を忘れてはならない
彼らの大いなる理念は、医学のみに囚われることなく後世に継承していくとが
恩恵を受けた私たちの義務であり責務なのである
彼らの思いは永遠に生き続ける』


それは、クロエの病院にあった銅板のレプリカだった。
「橋本先生はご自分の病院なのに全く来てくださらないし。
でも、ここで働く全ての者がこの思いの元、歩んでます」
誠の言葉を耳にしながら、薫は銅板に並ぶ日向と自分の名を嬉し恥ずかしそうに
見つめている。
学生たちも薫の背後に恭しく立つ。
「私たちの“ヒポクラテスの誓詞”ね」
水沢の言葉に、思わず皆の背筋が伸びる。
そして、そこに刻まれた名に深く頭を下げた。
日向やアランの存在があったこそ、今の自分があるのだと、私たちは橋本薫という
医師から、あなた方の思いを余すことなく継承しますと誓った。


この病院見学は実り多いものとなり、薫のゼミから救急救命医を志す者が
6名も出ることとなった。
後に若手医師としてフェローシップ(専門研修制度)により橋本総合病院で学び、
救急救命医として活躍する中に山岡、水沢、相沢が名を連ねた。


彼らの結束は固く、薫を中心に学生たちはひたすら学んだ。
薫はあれ以来、二度と過去の話をすることはなく、後輩たちがふざけて薫を嘲笑する
ことがあれば、山岡や相沢がその無礼な後輩を〆たなどの話も聞こえて来た。
仲間など求めもしていなかった真一もまた、いつの間にか仲間の輪に入り議論を
重ねる機会が増えた。
初めは感情論でモノを言っていた真一も、仲間として認められた中で堂々と意見を
述べることの心地よさ、言葉は人を救いもするが致命傷をも負わすことができることを
学んだ。そんな若きヒポクラテスたちの日々の成長が薫は嬉しくてならない。
基礎医学を学び終えても、『枇杷の会』の者達は、何かにつけては薫を中心に集った。
医師国家試験は『枇杷の会』全員が合格し、薫と共に喜びを分かち合った。
瀧田は麻酔科、真一は心臓外科と皆がそれぞれの道を目指し動き始めた。


卒業間近、会のメンバーは定年を迎え学校を去る薫の荷造りを手伝うために、あの西日の
強い部屋へ毎日通っていた。
高価な医学書も専門書も薫は惜しむことなく学生たちにくれてやった。
年齢を鑑みても、もう薫に対して働けという者もいなかった。
薫は日向と共に過ごしたあの温泉地の老人施設へ入居を正式に決めた。
これからは自分たちが薫の思いを継承していくのだと『枇杷の会』のメンバーたちは考え、
今は薫に日向を思いながら穏やかに余生を送って欲しいと願っていた。


心地よい春の温もりは、別れが近いことを知らせていた。


2017,3,1

 

*****

久々に『ヒポクラテスの誓い』を探して読んでみた。

長くなってしまうのでここにはあえて記載しないが、紀元前5世紀にこの発想があったなんて

今更ながらに驚いてしまった。(興味のある方はググってみてください)

しかし!『枇杷の会』って、我ながら地味だと思う。(苦笑)

 

ところで!枇杷を食べる薫に真一が……
これって何なんでしょうね?ちゃんと訳があったりします。
この段階ではまだ、浅見光彦も金田一耕助も謎は解けないと思ってます。

慕われながら歳を重ねて、惜しまれながら現役を退く。
しかし、その人の功績を誰もが忘れることはなく、常に誰かがその人を思い出してくれている……私はこんな年寄りになりたいってより、こんな年寄りが親だったら嬉しいと思う。

薫よ、あともう一波乱あるから頑張れ。