『海蛍』は特別な趣向を持った方に向けられた不定期連載小説です。

お付き合いの「いいね」は必要ありません。

次回、普通のブログupの時に、またお付き合いください。

 

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午後の教室には15分以上も早く皆が揃い席に着き、薫が来るのを待ち構えていた。
興味本位で待つ者、偽られたことが許せないと息巻く者、ただただ事実を知りたい者と
そう広くはない教室には様々な思いが渦巻いていた。
これまで薫と付き合い、人となりを知る真一ひとりが後悔の念を抱きかかえていた。


誰しも他人に知られたくも、触れられたくもないことはあるだろう。
薫は自らの努力でそれを昇華させて、今の薫自身を生み出した。
あれだけ恩を受けながらも人前で自分が薫を追い込むきっかけを作り結果、薫は今、
糾弾される側となってしまった。
己の過去と向かい合うことが恐ろしくなり、居たたまれず教室を飛び出てしまった自分を
思い、ひとり夕暮れのスーパーで枇杷を選ぶ薫の姿を想像すると真一は泣きそうな
気持になっていた。
『やはりダメだ、こんな馬鹿げたことは。
橋本先生が今日まで自分に見せてくれていた、笑顔や行いが全てではないか。
人一人を正義の名のもとに糾弾などと、自分は何と思いあがったことをしようと……』
皆を止めようと立ち上がった瞬間、静かに扉が開き薫が入って来た。
間に合わなかった……
真一は俯くと唇を噛みしめながら再び席に着いた。

 

「橋本先生」
真っ先に口を開いたのは、融通の利かなそうな桜田だった。
「率直にお伺いします。あなたは一体、誰なんですか?
この大学には『橋本薫』などという医師も講師も在籍はしていない」
言葉を投げかけられた薫の表情は、何一つ動揺することはないままだった。
「いえ、様々な事情で通名を使われる医師もいることは、確かに聞いたことはあります。
それは例えば国籍の問題で日本名を名乗るとか、結婚後に旧姓で医師を続けるなど
理由が見えていました。
けれども橋本先生は確か独身で、日本の国籍を持つ日本人だと。
そもそも『橋本薫』という人間は、本当に存在しているのですか?
そして、先生と同年齢であり、誰もその存在を知らない、この大学に籍を置く
『日向薫』とは誰なんですか?橋本先生と、どんな関係があるんですか?」
瀧田は躊躇うことなく、一気に疑念を言葉にして薫にぶつけた。


「私は……」
射貫くような視線をひとりで浴びながら、薫は立ったまま一瞬、言葉を途切らせる。
しかし、小さく息を吐き呼吸を整えると言った。
「私は橋本薫です。まだ、橋本薫です。
努力して、頑張って日向薫になれたらと思っていましたが、私には日向の姓は今も
あまりに重すぎて」
「あの……意味がわからないんですが……?」
怪訝そうに瀧田が更に問いかける。
「今日はあなたがたに“学ぶ”と“教わる”の違いについて考えて欲しいと思って
いました。あなた方の私に対する疑問に答えることで、この今日の授業に繋がることを
願いながら話を始めたいと思います」
薫は黒板前の椅子に意識して深く腰を掛けた。


「みなさんはこの日本で『貧しい』と聞いて、何を想像しますか?」
薫の質問意図が分からず、皆が不愉快そうに薫を見つめる。
「携帯代が払えない、かな」
「一日一食とか?」
思いつくまま学生たちが答えるその中、真一がポツリと言った。
「貧しさは人の心を荒ませ……人を殺すことも、人に殺されることも容易くなります」
真一の言葉に皆が僅かに反応する。
「生まれついての悪人など私はいないと思っています。
けれども人は、環境で変わります。そう、特に貧しさは人の心を底なしに荒ませる。
私の話は貧しい小作人の家庭に生まれた少年が、医者になりたいと夢を持ったところ
から始まります……」
こうして薫は自らの半生を語り出した。

 

貧しさの中で暮らしていた両親が、貧しさ故に姉を身売りしたこと。
姉は抵抗もせず、身売りすることによって薫が少しでも学べるのならばと進んで遊郭へ
売られたこと。
そこで当時は治療不可能な梅毒に侵され、自ら命を絶ったこと。
しかし、姉の身売りだけでは医学校入学は敵わず、せめて医学に携わりたいとの思いから
海軍の衛生兵に志願したこと。
そして、そこで日向と出会ったことを淡々と話した。
男である薫が、上官である日向に思いを寄せていたことに教室は騒然となった。
「それって橋本先生、まさかのゲイ告白!?」
「汚らわしいっ!!」
「うわぁ~っ、キモイ」
「橋本先生はヤル方?ヤラれる方?どっちだったんですか?」
「今も恋愛対象は男性なんですか?」
嘲笑と心無い言葉が容赦なく飛び交う中、
「おい三上。お前、橋本先生に掘られてんのかよ!」
との声に、真一の怒りは頂点に達し、椅子を倒す勢いで立ち上がった。
「誰だ!今の言葉は誰が言ったんだっ!?」
真一の怒声に教室は一気に静まる。
「私に何を言っても構わない。けれども、三上君はアルバイトとして私の手伝いを
真摯に行っているだけだ。三上君の尊厳を傷つける発言だけは撤回しなさい」
それはいつもの温厚な薫ではなかった。
絶対的な威厳に満ちた表情と声に、調子に乗った発言者である山城が立ち上がると
「すみませんでした……ごめん、三上。言い過ぎた」
と、深く頭を下げた。
まだまだ腹は立つが、薫の気持ちを考えるといつまでも山城の冗談に拘ってもいられない。
「わかってくれればいい。三上君も許してくれるな?」
と、言葉を向けられ、真一は黙って頷くと荒々しく着席した。
山城もそれ以上は何も言わないまま着席する。


「貧しく何もない……何かを持ちたくても持つことも許されない時代でした。
夢さえ持つこともね。
姉を失い本当に何も無くなってしまった私が初めて好きになった人が、上官である
日向総一郎海軍大佐でした。
私は一介の衛生兵、日向大佐は代々医師の家系で帝国大学出のエリート。
当時は迂闊にそばに寄ることも、ましてや話しかけることも許されない身分の隔たりが
ありました。でも、私は日向大佐を遠くから見つめるだけで幸せでした。
あの人が生きていることだけが……時折、あの人が自分の視界に入って来ることだけで、
海軍の酷い虐めにも耐えられました。
けれども戦争という狂気は人から理性を奪い取りました。
私は先輩にあたる者たちから……レイプされました。
気が遠くなるくらい殴られ蹴られ、何度も犯され続けました。
それを見つけて助けてくれたのが、日向大佐だったんです」


もう、薫の話を嘲笑したり茶々をいれるものは皆無だった。
視線だけを動かし真一は薫を見る。
薫は今までに見たこともないような辛い表情をしていた。


2014,2,23

 

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ここ、小説になるとあまり人が見ていないから書き逃げしちゃうけど……

 

ずっと昔に好きな人がいた。

高校の学校祭でお手伝いされて気になってと、ただそれだけだった。

クラスも違って、何のキッカケもなく話したこともなかった彼との会話は、毎日の登校が

楽しみになるくらいだった。

親父ギャグを言っては自分が一番大笑いして、その強引さにみんなは

「しょうがねぇなぁ」

って言いながらもつられて大笑いした。

学校祭の準備期間だけ関わりがあって会話して、学校祭前日、お手伝いが終わり彼とは

もう話すこともなくなったまま卒業した。

彼を意識しなければ、どんどん話が出来たのだろうなって今なら思う。

 

数年後、友人と飲み会を開いた時、誰かが彼を誘ってきて思わぬ再会をした。

酒は好きじゃない。いくら飲んでもザルだし。

でも、飲んで酔ったフリして「好きだったよ。昔ばなしだけど」と言って笑った。

彼は再び、思い出として胸の奥に消えて行った。

半年後、広げた朝刊の隅に彼の写真が載っていた。

ひとりギャグを言って、自分で笑っているってあの笑顔の写真。

背筋にゾクリと何かが走った。

彼の名前、年齢、現住所までもが書かれている。

事故死したと書かれていた。

読みかけの文庫本を抱えるようにして、眠るように死んでいたと書かれていた。

実はそこから記憶が見事に消えている。

 

記憶は彼の通夜から再開される。

高校時代の友人がたくさん来ていた。みんな泣いていた。

写真の彼は笑っているのに。

彼の両親の近くに泣きじゃくる同年代の女性がいた。

それは彼の彼女で、彼の両親が自分たちの近くに座らせたと聴こえて来た。

何だか私は泣くことも許されなくなった気分になって。

あの場で唯一、泣いていなかったと思う。

 

この通夜や告別式の日程やら様々な連絡係をして、高校時代の友人たちを集めたのは

私だったそうだ。

時折、友人とその話が出るが、今も私はそれを覚えてはいない。

 

数か月後、私は雪の中、彼の実家を訪ねた。

仏前にお供えする花を手にして。

仏壇に手を合わせることを拒み、玄関先で彼の母親に花を手渡した。

この時、吹き付ける雪の中で私は初めて彼のことで涙を流した。

 

ひと月ほどして、彼の母親からミカン箱で荷物が届いた。

卒業名簿に自宅住所が記載されている時代で、それを伝手に送って来た。

中には彼が好んで読んでいた文庫本がぎっしりと詰まっていた。

雪の中で泣いていた私の姿に、何かを察してくれたらしい。

私は中学時代から横溝正史のようなドロドロしたものが好きだったのに、彼のせいで

赤川次郎を読破する羽目になった。

完全犬派の私が「三毛猫ホームズシリーズ」を読んだおかけで、あれ以来、部類の猫好きに

なってしまった。

 

それから色々なことがあった。

嬉しいことも、悲しいことも、たくさんたくさんたくさん、両手で数えきれないくらいに。

彼のことを断ち切ろうと、何度か送られた本を古本屋に持参しようとしたが、

何故かその都度、入院する羽目になった。

それは三度続いたから、偶然とは思っていない。

辛いことがあると、私は段ボールを開けて本を手にした。

本は私に寄り添ってくれた。

 

亭主と知り合い結婚することになった。

私は意を決して段ボールに話しかけた。

「好きな人ができたんだ。結婚しようと思う。

 でも、(本を)持っていけないでしょ?

 だから明日、古本屋さんに持って行くことにしたから。

 亭主君には罪はないから、もしも古本屋に行くのが嫌なら私に意思表示してよね」

四回目の入院はなかった。

本はあっけなく私の元から去った。

今思うと彼は、本に姿を変えて私を励ましてくれていたのかも知れない。

そして、亭主の登場で潔く退場したと。

売ろうとした頃は、きっとまだひとり立ちできる状況ではなかったのだと彼が判断していた

のかも。元カノと二股しながら。(苦笑)

 

 

彼は享年と言う年齢を頂き、今も20代前半のまま。

私は気付けば毛の抜け落ちたおばさんになっていた。

 

 

これから書き進める話を考えていて、思い出した昔ばなし。

創作にあるまじき。

実は自分の体験があちこちにちりばめられていたりする。

薫の言葉を借りて、自分の思いを書こうとしている自分がいる。