『海蛍』は特別な趣向を持った方に向けられた不定期連載小説です。

お付き合いの「いいね」は必要ありません。

次回、普通のブログupの時に、またお付き合いください。

 

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日を跨いだ深夜、薫らを乗せた車は大学病院に到着した。
しかし、薫は車から降りようとはしない。
「君の気持ちは理解できるつもりだ。
君の現状を十分に知っておられる成瀬教授自身もハワード夫人に何度もそれを伝えた。

しかし、夫人はどうしても君でなければダメだと。
君が執刀を拒み、このまま手遅れになって死ぬのならそれはそれで運命だと受け入れるとも……」
「ばかなっ!」
薫は車内で大声を出した。
「大学には政府を経由して厚生省からもハワード夫人を何とかして欲しいと、催促の嵐だ。

どのような結果になっても、夫人を納得させなければ日本との関係にも影響が出かねないと」
伊達もほとほと困り果てているように、車のドアに手を置きながら薫を見つめている。
「夫人を納得させれば、成瀬教授も伊達先生も助かるんですね?」
薫はそう言うと、身をかがめながら車を降りた。
「執刀は出来ませんが、諦めて貰うことは簡単です。
夫人の目の前にこの手を掲げて晒せば嫌でも納得せざるを得ないでしょうから」
薫は伊達を置き去りにし、院内に足早に入って行った。

 

深夜の入院病棟は暗く静かだった。
最上階の特別室でハワード夫人は何時になってもいいと薫との面談を心待ちにしている。

苛立ちが薫の足音を重くする。
どうして、金や身分のある者はこうも無謀な要求を突き付けて来るのだろうか。
もしかしたら、自分を恨む誰かが、このような大掛かりな仕掛けをして自分を完膚なきまでに叩きのめそうとしているのか。足を踏み出すごとに、悪い方向へ思いは進んでしまう。
そして明かりの灯る部屋の前で立ち止まる。
「わざわざアメリカからこんなもの見に来るなんて、酔狂な……」
自分の右手を見つめ冷笑する。


「遅くに失礼致します。医師の橋本です」
周囲に気遣いながら、小さくノックをし英語で声を掛ける。
「お待ちしていました」
女性の声が薫を導く。薫は左手でドアノブを回した。


部屋には明かりが灯り、その女性は聖書を手にしていた。
薫が入室すると同時に、彼女は聖書を手にしたまま顔を上げた。
ブロンドの30代ぐらいの美しい女性だった。

「日本へようこそ」
挨拶で右手を差し出そうとしたが、指のことを思うと躊躇いすぐに会釈をした。
「骨肉腫と伺いました。それも進行中の」
助けにならない自分の現状を理解させ、一刻も早くここを去りたかった。
時間のない彼女のため。そして、無力な自分のために。
「橋本先生は私のデータを見てはくださってないの?」
怒りも悲しみもない、ただ、無垢な子供のような目で彼女は薫を見つめる。
「どのような経緯で私の名を知ったのかはわかりませんが、実は私は怪我をしてもう、医師を続けることが出来なくなってしまったのです」
薫はそう言うと隠すように背に回していた右手を彼女に差し出した。
彼女は薫の四指を失った薫の手を見て絶句した。

「あなたがアメリカで医師をなさっていたと伺いました。
失礼ながら、医学はあなたの母国であるアメリカが今は最先端を行ってます。
私はアメリカでのオペをお薦めします。
けれども、何か事情がおありなのでしたら、この大学に居られる成瀬教授や、その教え子である伊達先生が適任だと思います。
あなたが今、ここで決心されるのならばすぐにでも私から教授や伊達先生に話をして治療を開始しますが」
薫は言葉を選びながら言った。
「あなたは何をしてくださるのかしら?」
礼を尽くし説明しても、彼女はなおも薫を巻き込もうとする。
「助かりたいのならば、私を選択肢に入れてはいけない」
自分の言葉が、胸に突き刺さる。

 

「私、昔、死ぬところだったの。いえ、死んでるはずだった。
でも、死神の腕に抱かれた私を強引に取り戻してくれた人がいた」
その言葉は何の感慨もなく薫の耳を通り過ぎる。
「私を生かすためにと、その若いドクターは私の乳歯を一気に抜いたの。
そう、躊躇うことなく一気に」
彼女は嬉しそうに笑った。
「でね、私が大人になったらドクターになると言った時、そのドクターは
優しく笑いながら言ったの。
『レディの歯を抜かずに済む治療方法を見つける努力を私もするよ』って」
その言葉に薫は驚き目を見開く。
「みんなが集まるといつも、あの時の話が出たわ。
母のヘレンが父ジョージの足をライフルで撃ち抜いた。
それを機に町中の女たちがライフルを手に男たちに謀反を起こしたって」

彼女は愉快そうに笑った。

「……ご無沙汰しておりました、ドクターハシモト。
私はクロエ。クロエ・ハワード」
ベッドの上からクロエは薫に向かって腕を広げた。
「あぁ、クロエ!?」
薫は駆け寄りクロエを抱きしめた。

 

「私は一目見てすぐにドクターだってわかったのに……」
クロエは抱きしめられながら、少し怒った素振りで薫の背を拳で叩いた。
「こんなに素敵なレディになっていたなんて思わなかったんだ。
気付かずに済まない」
薫の手が慈しむように、クロエの背を撫でる。
「ドクターになったって?」
「えぇ。約束したでしょう、あの時。
ドクターが日本に帰られる時に。私、ドクターとの約束をちゃんと守ったの」
クロエの声は幸せそうに弾む。


特別室の深く沈むソファーに多少、居心地の悪さを感じながらも薫はクロエと話が尽きることはなかった。

 

薫が日本に戻り、アランが病で亡くなり……町は悲しみに暮れた。
希望の光を失い、貧しさで人々の心は荒み、診療所も閉鎖するしか道はなく。
そんな時、日向の遺残を受け継いだ薫が町に贈った金が届いた。
日本の弁護士を経由し、薫の思いのこもった手紙が添えられていた。
自分たちは決して見捨てられた存在ではなかったのだと、町は沸き返った。


その金の使い道をみんなで話し合った。幾日も幾日も大人も子供も老人も交えて、様々な思いを出し合った。自分の手元に残すことなくすべてを差し出した薫の思いに報いるためには、どうしたらいいのかを皆は季節を跨ぎ議論を重ねた。
結果、そのお金でまず、町に設備の整った病院を作った。
田舎ではあったが、設備の揃った病院を魅力に思い各地から医師が集い在住するようになった。更に薫の金で基金を作り、支払い能力のない者からは治療費を猶予するシステムを
作り上げた。病院の話を聞きつけた者達が集まり、町は市になり地方都市と呼ばれるまでになった。経営に明のあったジョージの発案で、プールしていた薫からの金で奨学金基金を作り、有能な者に対し大学へ進ませる奨学金制度をスタートさせた。
「その一期生が私」
クロエは自慢げに薫を仰ぎ見た。
「私はあなたの奨学金で州立大学の医学部へ進学したの。
町はあのままだったら廃墟として朽ちるしかなかった。
でも、ドクターのおかげで町は生き返り、新しい命や産業をも生み出したの。
みんな待っていたのよ。いつかここまで繁栄したオレゴンのあの町にドクターが来てくれるんじゃないかって!」
碧いクロエの瞳に映る自分の姿が揺らいでいる。
「父も母もアンナおばさんもニールおじさんも、みんな、みんなドクターが戻って『頑張ったね』って言ってくれるのを待っていたのにっ!!」
薫の呼吸が止まった。
そうだ、あれから何年、何十年もの年月が経っていたのだ。
ミツも往生と言われる死を迎えた。
ジョージもヘレンもアンナもニールも自分を囲んでいた者たちも世を去ってもおかしくはない時が過ぎていた。
「ジョージは元気なのか?ヘレンは?アンナもニールもみんなは!?」
クロエは無言のまま、首を横に振った。
「みんなから受けた恩は忘れたことはなかった。
オレゴンでの出会いと日々が無ければ今頃自分は生きてはいなかった。
私は忙しいという言葉を盾にして何てことをして……
愛しています。あなたを、町のみんなを私は今でも愛して……」
薫はソファーで頭を抱え肩を震わせた。

 

「そうだ、そうだよ。クロエ、君は骨肉腫なんて恐ろしい病になって」
薫がふと思い出したように顔を上げた。クロエと視線が交わる。
「内科医として勤務をしていた時、ルークが入院して主治医と患者として私たちは出会って結婚したの。彼は私が誇りをもっていた医師を辞める必要はないと言ってくれたけれど、ルークの事業が大きくなるにつれて、伴侶としての役割も無視できなくなってきて。
ルークは慈善事業に力を注いでいて、私はそちらを任される事が多くなって。
ドクターが『忙しい』って言った言葉、私理解できるの。
私も『忙しい』って言い続けた結果、自分が病に侵されていることに気付かずにいたんだから」
クロエはそう言うと、毛布をはぐった。
細く白い綺麗な脚が並んでいる。
「左に骨肉腫が見つかったのが先月末。
正直、この足、切断しても命が繋がるのかは私にもわからないの。
ルークはアメリカ問わずどこの国の医師でも構わないから、私を救える医師をと言ってくれて。でも、私には迷いも何もなかったわ。だって私にはドクターハシモトって素敵な主治医がいたんだから」
クロエの言葉に薫は唇を噛みしめながら立ち上がる。
ソファーの軋む音が深夜の病室に響く。
「ありがとう、クロエ。
私のことを主治医として思い出してくれて、ここまで来てくれて。
でもね、私は事故で……ほら、利き手の指四本を失ってしまったんだ。
整形外科医だったんだが、メスが持てなくなってしまった。
内科医や精神科医を勧める者もいたけれど、医者にとって手は絶対的な存在なんだ。

同じ医師のクロエなら分かってくれるだろう?
触診はあらゆる診察の第一歩。
論文を書くことも勧められたけれど、患者に触れることも出来ない医師が過去のことを思い出しながら書く論文は、日進月歩で進む医学には向いてはいない。だから私は……」
言葉を途絶えさせたまま、薫はクロエの足に毛布を掛けた。
「私、日本へ来る前に調べていました。
だから不幸な事故でドクターが指を失ったことも知っていました」
「だったらなぜ!?この病気は時間との争いだと言うのに、どうしてこんな無謀で無意味な来日など……」
「無意味ですって?私がここへ来たことが!?」
クロエはキッと薫を睨みつけた。
「医師には絶対に指が必要なんて決まりが、この国には存在してるの?
だったら、足を切断した私も医師には戻れないってドクターは言うの?」
「詭弁だよ、それは」
「詭弁はドクターでしょう。ドクターアランは、そんなちんけな医師像をあなたに植え付けたの?」
「アランは素晴らしい人だった。彼は命尽きるまで医師だった!」
薫は思わず声を荒げた。
「寝たきりになったアランの元に毎日、お見舞いと称してたくさんの人たちが通っていたわ。

お見舞いで訪ねたはずなのに、アランはいつの間にか起き上がって会話は問診になっていて。アランを心配して握った老婆の手の脈を探して触れて、不整脈を見つけたこともあったぐらい。アランがいるだけでよかった。
アランがいてくれるだけで私たちは元気になれたし、幸せな気持ちにもなれた。
アランは死ぬまで医師だった。なのに、あなたは何?
指がないから医師は出来ませんって。遥々、海を越え国境を越えてやって来た患者を追い返したなんてアランが知ったら、きっと激怒するでしょうね」


医師としてのアランの最期を今、薫は知った。
敵兵でありながらも、アランは太平洋上で自分を見つけ助けてくれた。
日向が命がけで護ったこの命を繋いでくれたのは間違いなくアラン。


「私に……指のない整形外科医の私にどうしろと?」
「あなたには跡を継ぐドクターオオハシがいるんでしょう?
医師としての自分の全てを継承させようとしている若きドクターが。
ドクターオオハシに執刀をお願いします。
そして、私の主治医、ドクターハシモト。私の身体を使ってアランの魂も彼に継承してください。私の命があるなしは問題ではなく、今回はドクターオオハシがアランやあなたの医師としての技術と理念を継承できるかが重要な問題なのですから」


あの歯を抜かれ泣き叫んでいた幼子が今、薫を追い詰めて来る。
薫の否定的な言葉を全て叩き伏せ、じりじりと追い詰めて来る。
目の前にいるのはクロエではなくアランなのではないのか。
自暴自棄になって逃げようとしている不甲斐ない自分を叱りに、アランが業を煮やして乗り込んできたのだと薫は思った。
「ドクターハシモト、返事をください。
私だけではなく、いつも私と共にいてくれるアランにもハッキリと」
「……手術をします。生かされた命のすべてを懸けて」
クロエが薫の右手を両手で覆うように触れる。
「アランはまだ、生きている。ここに……」
愛おしそうにその手を頬ずりし、クロエはキスをした。

知らぬ間に外は朝焼けに包まれていた。

 

2017,1,23