偏った性癖の小説です。

興味のない方は、次回のフツーのブログでお会いしましょう。

義理の「いいね」は固くご辞退申し上げます。

*********

 

敗戦直後、我が国には医学を学べる学校は、旧帝大7校、官公私立私医大11校、
官公私立医専33校、附属専門部18校の合わせて69校あった。
当時は卒業さえすれば自動的に医師免許が与えられていた。
それは戦中の圧倒的医師不足によるものであり、急ごしらえの『医師』は、次々と戦場へと送られていった。
しかし、敗戦と共に『軍医』たちが続々と国に戻り、一時期、我が国の医師数は7万人に迫る数までに膨れ上がった。医師過剰の抑制策として当時のGHQは『インターン制度(実地研修制度)と医師国家試験制度』の導入を決め、実施を始めた。
1946年11月に実施された第一回の医師国家試験では、受験者は266人、合格者は137人、合格率は51.1%であった。
薫が医師を目指した時期は、とても厳しい状況であったと言える。

 

薫はこれまで勉強をしたすべてを、ここまでの道のりを応援してくれた者たちへ感謝を込めながら答案用紙に向かい合った。
答案用紙を前に、薫は手を組み深呼吸をする。
そして『日向薫』と、丁寧に名を書き記した。


難しい設問は多々あったが、わからず鉛筆が止まることはなかった。


これは、アランが大切なことだから忘れぬようにと、何度も繰り返し教えてくれた公式
これは、笹本が寝ずに教えてくれた箇所
これは、ミツが作ってくれた袢纏を着て背を丸めながら解いた問題

 

どれも記憶が鮮明によみがえる。かかわってくれた者たちが、背を押してくれている。自分のような小作人の倅が今、こうして大学医学部の試験を受けている奇跡。
動揺することなく、面白いくらいに鉛筆が答案用紙の上を踊るように設問部分を埋めていく。

「終了っ!!」

すべての試験が終わり、会場内にどよめきが起きる。
そんな中で、薫はひとり笑みを浮かべた。


結果はわからない。
過剰な期待も落胆もしてはいない。
自分の持てるすべてを出し切った今、薫の心は晴れ晴れとしていた。

それから薫は、仕事やミツの手伝いに一層、精を出した。

薫ならきっと合格している。けれども、もしも、もしも万が一……
ダメなら必ずここに戻ってくることを、薫はミツに何度も約束させられた。
今年がダメでも来年が、来年がダメでも再来年が、それでもダメならば、ここで一緒に細々と下宿をやっていけば、ふたり食うだけはどうにかなるとミツは真剣に言った。
この土地で生まれ育ったミツは、薫の受験した大学がいかに狭き門なのかを熟知している。ミツが自分に対してそこまで思っていてくれたことを改めて知り、薫は嬉しかった。

 

そして合格発表当日。
これまで平常心を失うことなく過ごしていた薫だったが、この日は一睡もできぬまま
朝を迎えた。突然、何をしても自分は報われることはない人生だったと、何を掴んでもすべてがこの手をすり抜けていくのだと、悲観的にしか物事を考えられなくなっていた。

 

『お前なんか穀潰しだ!』
『小作の倅にゃ学問なんて必要ねぇんだよ。
牛馬のように丈夫で働けさえしたら、それだけでいいんだ』
『このくそガキ!半人前の働きもできないお前が死んでも、

何も困ることはないんだよ!』
『敏子は女だから身体を売れるが、お前は親のために一体、何が売れるんだい?』


忘れていた親からの暴言が、何度も何度も繰り返し聞こえる。
恐ろしさで身体が震えだし止まらない。震えを止めようと身体に力を入れた瞬間、受験票が掌でくしゃりと丸くなった。
「無理、無理だったんだ。
オレ、馬鹿みたいに大学の医学部受験なんて、大それたことを……」
身体の力が抜けた薫は、その場に座り込んでしまった。
と、その時だった。
『月が綺麗だな……』
あの時、日向の背で聞いた優しく語りかける声が聞こえた。
仰ぎ見る月に薫への思いを乗せた一言だった。
それに気づいた自分は、日向の思いをすぐには信じられずにいた。
まさかと思いながらも『死んでもいい』と答えた自分を日向は受け入れてくれた。
自分が不幸だなんて、何ひとつ思うままに生きられなかったなど、なんと不遜なことを考えてしまったのだろうか……
自分は確かに日向に愛されたし、今も日向を愛している。
掌で小さくなった受験票を慌てて伸ばし見た。
そこには確かに『日向薫』と名が書かれている。
自分はあの頃の無力な自分とは違う。
太平洋上に浮かんでいた血染めのロープ。
日向が自らの身体を刻んでまで薫を開放してくれたあの瞬間、弱かった自分も日向が抱え深く深く沈んで行ってくれたのだ。

静かに立ち上がる。
「日向艦長、行ってまいります」
薫は晴れ晴れとした表情でそう言うと、一礼して部屋を出た。


これから発表を見てきますと、ミツに声をかけた。
ミツは懐から皺になった札を薫に手渡した。
「すぐに帰って来なくてもいい。
これで何か美味しいものでも食べて、落ち着いたら帰っておいで」
そう言いながら、両手で薫の手を包んだ。
「大丈夫です。合格しても落ちていても私にはここしか戻る家はありませんから」
薫は微笑んだ。

 

発表時間とほぼ同時に薫は会場へ着いた。
校門そばまで行くとすでに湧き上がる歓声が聞こえてくる。
「やったぁ!!」

嬉しさに拳を翳したまま駆け抜けた若者とすれ違いざまぶつかられた。
思わず薫は振り返ると、その若者を目で追う。
自分は発表を見て、どんな態度をするのだろうかと思った。

人だかりの方へゆっくりと歩く。
「すみません。通してください。あの、通してください」
やっとの思いで掲示板の前へ出て、受験番号を目で追い始めた。
「204、235、251……」
無常に飛ぶ番号を読み上げる。自分の番号が近づく。
「303、303……あっ……」

 

 

午前10時の発表からすでに2時間を経過しているにもかかわらず、薫は戻らない。
ミツは仏壇に今朝から8回目の蝋燭と線香を灯し手を合わせた。
「結果なんてどうでもいいから。橋本さんを無事にここへ……」
その願いは涙声になっていた。
「ただいま戻りました」
扉の向こうから薫の声がした。
ミツは慌てて立ち上がると、思い切り扉を開ける。
そこには泣いていたであろう目を赤くした薫が立っていた。
ミツはすぐに察して薫を抱きしめた。
「よく帰って来てくれた。ありがとう、ありがとう。
若いんだし、また一から頑張ればそれでいい」
絶望しながらも薫が自分のもとへ戻ってきてくれたことをミツは喜んだ。
「これ、お仏壇に供えてください」
薫はミツに包をひとつ手渡した。
見ればそれは地元で有名な団子屋のものだった。
「今まで本当にお世話になりました。ありがとうございます。

無事に合格していました。
一緒にお祝いしたくて、ちょっと遠いけど美味しいって評判の団子屋さんまで

買いに行ってました」
深く頭を下げる薫にミツは腰を抜かして座り込んでしまった。
座ったままミツは大きな声で泣きだした。

 

多くの者に助けられながら、夢に向かって踏み出した一歩だった。


2016,9,20

 

*******

こんな話でも一応の史実の考察はしています。

ただ、あまりに史実に忠実になると話が進展しなくなるので、適度に都合よく話を盛ったりもしていますが……

今年3月に厚生労働省が第110回医師国家試験の合格発表を行ったけれど、受験者数9,434名のうち合格者数は8,630名で、合格率の全国平均は91.5%。(新卒者の合格率が100%だった大学は和歌山県立医大、順天堂大、慈恵医大、近畿大)戦後の約51%ってのはもう、医者は増やさないって国の考えがありありと見えますね。

平成27年度の司法試験23%や公認会計士10.3%の合格率ってのもあるけれど、まぁ、これ以上は踏み込むのをやめましょう。収集つかなくなるんで。(苦笑)

あぁ、こうやって「今日知っても使えない知識」が増えていくんだなぁ。チーンチーンチーン

さて、今後の展開ですが、私には医学部での知人はいないので、詳しいことはわからないので、更に更にご都合主義で話は進みます。

その辺はおおらかで長い目で見てください。デレデレデレデレデレデレ

実は私はここまで来てもなお、薫が外科、内科、整形外科、産科……と、何を専攻するのかも決めてません。ゲッソリゲッソリゲッソリ後に三上先生と絡むのなら外科になるのでしょうが、そこはちょいと考えがありまして。麻酔科のたきたちゃんの恩師でもありたいと思うし。あぁ、毒母がいないと平和だわ。笑い泣き笑い泣き笑い泣きでも、指は両手合わせて4本しか自由に動かないぜ。