子育ての苦労 ブログネタ:子育ての苦労

娘とのことで悩んでいる最中、アマゾンで注文していた本が届いた。注文したのはゴタゴタが起きる以前のことで、悪い意味でのタイミングで受け取ったことで苦笑いした。

大阪姉妹殺人事件の犯人として捕らえられ、死刑判決を受け2009年に刑を執行された。ここでは犯人とされる男が『広汎性発達障害』だったのか?に焦点が当てられ緻密な取材が行われていたことが綴られている。

 

「この手の障害の持ち主に悪い人はいません」「みんなピュアな人たちなんです」との言葉をよく耳にするが、私はこの言葉に強い違和感を覚える。「差別なく同一に見て欲しい」と親や身内が言うのならば、一定数の人間に対してこの手の障害は何人かがいることになり、犯罪を犯す者だって、統計学的にも一定数はいるはずなのだ。それが「犯罪を犯した者」となると、何故か「ピュアな人間だから」と、普通と呼ばれる一定数から、障害を持つ者を善意の排除をしようとする者もいる。この世で生きる者として皆と同等の権利を享受したいのであれば、当然ながら「負のもの」だって受け入れなければおかしいのだ。確かに障害であることを望んで産まれたのでも、また産んだのでもない。しかし、他者に危害を加える(相手に何の落ち度もない場合)ことに対して、罪を減じてしまうのであれば、いつになっても娘のような障害を持つ者は健常者が中心となって構築する世界には入ってはいけない。どう考えても受け入れる側にリスクがあり過ぎる。

 

そちら側に行かせないようにと、相当、娘とは話し合ったがやはり理解はできないのだ。私と娘がギクシャクしていても、アスペ傾向のある亭主は決して、私と娘の間を取り持とうとはしない。間を取り持つということは、時に意見を出す側(自分)が悪者とか話のわからない奴と思われがちになる。誰だってそんな評価は受けたくはない。例え家族間であってもである。でも、曲がりなりにもこの家庭が今日までどうにかなった一因の一つには、私が言いにくいこと、伝えにくいことを言ったから、どうにかなったこともあると思っている。誰かが嫌な役目を引き受け、それを実行する。「こんな細かなことまで言いやがって」って思われたことも多々あっただろう。でも、誰かが自分の言いにくい、言いたくはないことを言ってくれているから家庭も世の中も何とか回っていることは覚えていて欲しいと思う。みんなが善人で、聞こえのいいことばかりを言っていては、この世界、10分も持たないであろう。10分あれば話も食い違いオバマだって核ボタンを押さないとは言い切れない。

 

この本のタイトルである『死刑でいいです』本を読み終えるころに、タイトルの重さにしばらくは無口になるだろう。同じ障害を持つ娘が今、何らかの対策を行わないと、この本の主役となった者の後追いをしないとは言い切れない。(健常者であってもだが)私もついに自分の我欲を封じて、娘の卒業後、同じ障害を持つ者たちが働く施設を検索して調べるようになった。クッキーやパンを作ったり、清掃業務や食器を洗ったりと様々な職種がある。しかし、どれも残業はないが、各自治体で定めた最低賃金ギリギリか、下手したらそれを下回るものもある。それらの職種の良し悪しを語る気は毛頭ない。ないけれど、自分でそっちの方向へ向かう生き方しかしていないことだけは肝に銘じて欲しいと思う。

 

しかし、それが娘に取って「気兼ねのない日常」であり、笑顔がこぼれる居場所になるのであれば、それはきっと幸せなことなんだろうとも、この一日で思えるようになった。娘の幸せは、娘の物差しでしか計れない。