最近、絵ばっか描いています。
本はあまり読まなくなりました。
苦手な色塗りに挑戦して幾日、
「色を置く」という本質的な喜びを知るとともに、
未来への、現実的な厳しさも感覚的に分かってまいりました。
しかし、それほど打ちのめされてはいません。
今、何をすればよいかの方向が分かったので、
むしろ楽しんでいるくらいです。
比較すれば、大目標はあっても、
本日これからの方向性が定まらない不安ほど
辛いことはありません。
歩いていればいつかは着くという確信、
たとえ寿命までに着かなくとも、道を楽しむ。
私はもともとRPGが好きなので平気です。
クリアする為でなく、クリアという目標に向かって
積み立てていくことを楽しむ、そういうのがいいです。
さて、絵を描いていて、ふと思い出したこと。
デジタルスタジアムというTV番組がありまして、
若き映像、パフォーマンスクリエイター達が
作品を発表していく番組なのですが、
それに賞をつけるという発表番組があったのです。
最近はあまり観てなくて、かなり前の記憶なのですが、
その時は時代人形劇、たしか「鬼」というのが
最終審査で話し合われていた気がします。
鬼と呼ばれる山の怪人を殺しにいく若者の話ですが、
私は人形のビデオをほとんど作ったことがないので
この作品の素晴らしさがいまいち分かりませんでした。
雨の表現など、技術的なこだわりが徹底されてたからかも
しれません。
で、この審査でMAYA MAXXさん等が
「なんでこの現代に、この時代作品なのかわからない」
という感じの発言をして、
それを聞いた「ニャッキ!」の作者が
「作りたいものを作ればいいんですよ。こういう作品を
作るな、なんてのは傲慢です」
みたいな反論をしていた記憶があります。
私はこの話がずっと引っ掛かっていました。
自分は絵を描く時、何を描いているか。
絵の人が手持ち無沙汰な時、何を持たせるか。
TV、漫画、ゲームの影響が色濃い私はよく
剣を持たせます。銃の時もたまにありますが、
ミリタリーにはあまり興味がないので適当です。
この、「持ち物」がいったい何を意味するのかが
気になっていたのです。
イラストというものは想像が命です。
せいぜい幅何十センチの絵だけでは、大した情報はありません。
そこになるたけ、目立つだけ情報を詰め込んでも、
却って邪魔くさい。
人は情報を受け取った後、自分のストックから
関連情報を引き出します。
それが本人にとって好ましいものであれば、その人にとって
その絵は「いいもの」となります。
絵とは、コミュニケーションを必要としているのです。
では、剣は何を意味するのか。
それで何をするのだろう。
人は想像します。
その持ち主の表情、装束から
この人の職業を、そして、
手の剣は人を斬るものか、ケモノや物の怪を斬るものか、
はたまた暴力から身を守る為のものか。
何故剣か。
私は真剣を持ったことはありません。
持つ必要性があったこともありません。
でも、剣を持たせる。
何かの象徴でしょうか。
人間の持つ暴力性。
退屈への反抗。
恐怖への対抗。
強さへの渇望。
生命観への回帰。
これが携帯電話でも、いいわけです。
そういうときもあるでしょう。
しかし、普段持たないものを持たせるということには、
まだまだ深い意味が眠っているような、
そんな気がするのです。
ファンタジー。
先ほどのクリエイター達の討論は、
アートというものの根幹をつついたものだと思うのです。
ファンタジーが横行するメディアアート。
MAYA MAXXさんは「現実、ちゃんと見ているか」と
云っているような気がします。
「ニャッキ!」の伊藤有壱さんは
「ファンタジーなしの芸術なんて存在しない」と
主張した気がしました。
解釈がすぎるでしょうか?
人が何かを想像したり、夢を見たとき、そこには必ず
「ファンタジー」がある。
古代だろうと現代だろうと、それは変わらない。
でも、「現実」というものを切り取り、それを提示して
変えていくのもまたアートの仕事。
「空想と現実」の狭間で絶えず葛藤する、それが芸術。
「現実から目を背けたファンタジーは意味がない」
「いや、目を背けたという現実がファンタジーを生む」
皆さんはどう思われますか。