英語が日常語でないからです。
日本人が英語をしゃべれるようにするには、英語を日本国の公用語にするしかないと思います。
英語を公用語にすることで、日本人も生まれてから、家庭・保育所、幼稚園・小学校中学校・高校大学あるいは、日常のスーパーでの買い物、アルバイトでの接客、役所での手続き、届出など、すべての日本国内での言語活動を英語にすることで、日本人もきっと英語がしゃべれるようになると思います。
しかしじゃあなぜ日本国は英語を公用語にしないのでしょうか?
太平洋戦争が終わって進駐軍が日本国に入ってきたときに、英語を公用語にすべきだ、との議論があったと聞いています。
今から思えば、日本人が英語をしゃべれるようになるには、あの時点で英語を公用語にすべきだったとボクは思います。
しかしなぜ日本人は英語を公用語としなかったのでしょうか?
それは日本人としての文化を奪われることを恐れたに他なりません。
つまり言語とは、単純に何をどう発音しているのか?記録して行くのか?と言う問題だけでなく、日本人とは何なのか?英語人とは何なのか?と言う文化・生活習慣に根ざした問題なのだろうと思います。
多くの英語指導者や英語を解説するユーチューバーたちが、「〇〇だけで、英語がペラペラ‼️」みたいなキャッチコピーで動画を出していますが、そのユーチューバーたちの動画を見た「だけ」で、英語がペラペラになった人を、僕は見たことがありません。もしおられるのなら、手を挙げていただきたいものです。かく言う私も数限りない英語教材や英語のYouTubeを見てきましたが、いまだにペラペラではありません。それは私の頭脳が劣っていると言うことなのでしょうか?
ある無料メルマガのキャッチコピーでは、「このメルマガを読むだけで英語がペラペラ。」と書いてありました。しかしそのメルマガもすでに4,000号を超え、おそらくこの先もまだ続いていくことでしょう。単純計算で10年以上メルマガが続いていることになります。10年以上もメルマガを継続された発信者の方には、ただただ敬意を表するしかありませんが、このメルマガを読む「だけ」と言いながら、いつになったら私はペラペラになるのでしょうか?
しかし最近私はプライベートである出来事があり、日本語の文化と英語の文化と決定的に違う点にようやく気づいたのです。
それは日本語には「I」がない、と言うことです。
(こういう発言をすると、読者の中にはお前は日本語を卑下するのか、などと批判されるかもしれませんが、私は日本語と英語の特徴を述べているだけであって、どちらが上とか下とかと言う議論をするつもりはありません。私は日本に住んでいて、日本語の美しさや素晴らしさを改めて実感しながら今でも日本語で生活しています。)
しかし多くの英語指導者は、薄々はこの点については気づいておられると思います
例えば、英語を喋るときには主語を入れましょう。英語は文法的には「I」が入るのです。
と言うことを強く強く力説されています。
このこと自体は私は正しいことだと思います。しかし、言語とはただ文法だからここに「I」が入るんだ。youが入るんだ。hisが入るんだというような問題ではなく、
人間としての「I」、人格としての「I」が本当にあなたの中にあるのか?
ということを問われているのではないかと思うのです。
私たちが友達同士でカラオケに行くかどうか話題になったときに、日本語では「カラオケに行く?」と言うと思います。これは日本語としては間違っているとは言えません。
しかし英語では
Do you want to go to karaoke?
つまり、
「あなた」はカラオケに行き「たい」か?
と聞いているのです。
カラオケに行く?
と、
あなたはカラオケに行きたいか?
意味合い的にはほぼ同じことを言っているように思えて、この違いこそが、英語と日本語の違いだと思います。
例えば、僕の話をすると、僕は決してカラオケが好きなわけではありません。ただ、友達らがみんながカラオケに行こうと言った時に、僕は「みんなが行くんだったら僕も行くよ、」と言う意味で「行く」、と返事をすることがあります。
しかしあなたはカラオケに行き「たい?」と聞かれると、いや別に行きたいわけじゃないけど…みんなが行くんなら僕は行くよ。みたいな反応をするのが昔の僕でした。
「飲みに行く?」
「飲みに行きたい?」
これの違いがわかるでしょうか?
あなたは何を食べたいか?
あなたは何を着たいか?
日本語としても英語としても決して難しい文章ではないと思います。
あなたは何が好きか?
あなたは誰が好きか?
あなたはどの学校に行きたいか?
あなたはなにを学びたいか?
あなたは将来何になりたいか?
あなたは誰と結婚したいか?
あなたはどこに住みたいか?
あなたはどんな家に住みたいか?
あなたはどんな生き様を送りたいか?
あなたはどんな死に様を迎えたいか?
こういう単純な、「あなた」は?という問いに、
「私は」こうだ。といえる「私」が、果たしてあなたの中にあるでしょうか。
実はボクの人生は、この「私は」がなかった。ボクの周りの多くの人は、きっとよかれと思って、ボクに多くのアドバイスをくれたのだと思う。しかし事の決定の最終場面で、ボクの中には「I」はなかった。
結果的にそれは、ボクを幸せにはしなかった。
あなたはどんな生き様を送りたいか?
あなたはどんな死に様を迎えたいか?
そこに本当に「あなた」はいるのでしょうか。?
例えばある会社の社長の息子がいました。社長が急死したのでやむなく息子が会社を継ぐことになりました。しかし彼はその会社には全く興味がありません。自分がやりたいのはギターであり、スポーツであったりするわけです。そういう選択を迫られる場面で、私たちは本当に「I」を主張することができるのでしょうか?
そのことがボクのこの記事のテーマです。
私も長い間日本で生きてきましたが、長い間「I」のない人生を送ってきました。家族のため、組織のため、集団のためお国のため、「I」を殺し周りに同調しながら生きてきました。
しかし、最近ようやく、「I」の意味がわかってきました。
「I」の意味を理解するに数十年かかりました。
本当に自分の中の「I」が認識できると、自分と同じ「I」が、あなたの中にもある。これが僕にとってのyouです。自分の中に「I」があるということが認識できるなら、その「I」はきっと彼・彼女の中にもあることでしょう。それがボクにとってのheでありsheです。
そうやって自分の中の「I」、自分以外の人間の中にある「I」。世の中はこの「I」でできていると言うことに気づけば、日本人の英語ももう少しは英語らしい英語になるのではないかと思います。
英語を喋るには、文法も大事。トレーニングも大事。しかしその一番のスタート地点には、自分の中の「I」に気づくところからスタートするのではないかと。私は最近思うようになりました。