今日は大学時代の友人達がランチ会を開催してくれました。

懐かしい昔話に花が咲き、お陰で免疫も爆上がりです。


ところで、皆さんは「キャンサーギフト(がんがくれた贈り物)」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?


がんになったことで、それまで見えていなかったことに気付いたり、新たな出会いがあったり、感謝するような出来事が起きたりすることを指すようです。


私は当初、この言葉に強い違和感を禁じ得ませんでした。


がん全体の5年生存率が6割を超えるようになった現代医学においても、すい臓がん、特に腹膜播種の予後は、実はここ10年間改善を得られておらず、現在もほぼゼロです。

私はこの絶望的な現実に一矢報いて「風穴を開ける」べく奮闘する事を決意したものの、この先厳しい未来が待ち受けていることも覚悟しています。


「がんがくれた贈り物」などと言っていられるがん患者は、予後が比較的良好な癌種の患者の特権であり、「10年後、ひょっとしたら自分は死亡するかもしれない」程度の危機感、というか気持ちの余裕がなければ、そんな悠長なことは言ってられないだろうと受け止めていました。


この言葉を最初に聞いた当時の私は自分の予後を「週単位」だと考えていたので、「がん(膵臓がん腹膜播種)に罹患したことによるギフト(贈り物)だって?!冗談じゃない!」と言うのが正直な気持ちでした。


当時の私にとっては、それは決して「贈り物」などではなく、何の前触れもなく、突然言い渡された、再審請求なしの「無実の罪での死刑判決」だったのです。

ただ約3年に及ぶ闘病生活を経て、次第に考え方にも変化が芽生えてきました。


私はすい臓がんに罹患したことを、職場はもとより、学生時代の友人達にもオープンにしてきました。

高校や大学時代の友人達が今日のようなランチ会を開催してくれたり、寄せ書きや御守りを贈ってくれたり、前職時代の上司・同僚が、私が金曜日に出社していることを聞きつけて、わざわざ今の会社まで様子を見に来てくれたりと、色々と気遣って頂き感謝しています。


友人とのお茶の時間や家族で楽しむ夕食。

進行がん患者ならば、こんな日常にも幸福を感じることができるのです。

これをやってもらうためには、いくら払えば良いのか?」と問わなくても良い人間関係が、ありがたいのです。


それでも私にはやはり、膵臓がんに罹患したことによるギフト(贈り物)に感謝する気にはなれないのですが、命とはどういうものなのか、という考えに取り組むことや答えを見出せるなら、それは確かにギフトなのかも知れないと思えるようになりました。


癌に限らず、人間いつかは必ず死にます。


そこに向けて備えることが出来る人と、出来ない人がいるというのが現実です。

備えと言うと、相続がどうとか、経済的問題とかはもちろん大事ではあります。

また、生きているうちにやっておきたいことをやっておく事、これもまた備えと言えるかも知れません。


ただ一つ言えるのは、やはり備えることが出来る方が良いということです。


つまりその備える猶予期間がギフトであり、進行がん患者のほとんどは命に向き合うことになるわけですから、そういう意味でのキャンサーギフトってあるのではないかとようやく思えるようになった今日この頃です。