B階段は、先ほど崩壊していたのを目の当たりにしている。しかし、今の状態では、彼女を信じるより他に脱出する方法はない。黒煙が、死神の手のように足元にまとわり付く。鼻と口をハンカチで押さえていたが、鼻や咽喉の粘膜を爛れかせ、呼吸が止まりそうになる。迷路状になったところを、7人は、戻り始めた。金髪の女が、滑って尻餅を付いた。傍にいた中国人の男性は手を差し伸べた。短い礼の言葉に、中国人は、絶対生きてこのビルを脱出しょう、頑張れ、と励ました。中国人は、最上階のレストランで働く、コックだ。彼は、その日は、遅出の9時出勤だった。
彼女の誘導した階段は、不思議にも壊れていなかった。黒田が見たのは、錯覚だったのか。B階段は、下に通じていた。十五階まで降りると、重装備の消防士三人があがってきた。彼らは、上に救出にいくという。この上は、地獄の入り口だと、同行したフランス人が止めると、天国だろうと地獄だろうと、俺たちの仕事だ、と重い機材を担ぎ治すと、足場の悪い階段を昇っていった。しかし、勇気ある彼ら消防士は残念ながら、二度と戻って来なかった。九階のテラス広場には、飛行機の残骸や、手足がもぎれ焼き焦げた死体が散らばって、異臭を放ち、幾条かの微かな煙を揺らがせ燻っていた。
何時間経過しただろう。それは、終日に渡る長い時間のように感じられた。押し寄せる疲労を細い神経が、辛うじて食い止めている、全員が、そんな危険な状態だった。ようやく黒田たちは、ロビーまで辿り着いた。しかし、そこで全員が立ち竦んだ。ドアの無効は、ウエスト通りがある。そこまででれば、もう安心だ。だか、その出口には、コンクリートの欠片やらアメ場になった鉄骨の残骸が死骸が、爆弾の雨のように降っていた。危険で脱出できる状態でない。消防士が、いまにも倒れそうな二人を両腕に支えた。だが、彼らも、出口に迷っている。そのとき、盲導犬が突然吠えると、南口の出口に向けて、初老の男を先導し始めた。迷わず、みんなは、その犬の本能に掛けた。その出口は、地下のシヨピング街に通じていた。そこには、南タワーから避難した者で溢れていた。警察官と警備員が、もう少しだ、頑張れと、並んで道順を示し、地上に出るエスカレーターに載せた。地上に出られた。救急車のサイレンが直に聞こえ、風が強く噴煙が舞っている路上は、人々が激流に流されるように騒然と逃げ惑っていた。リバティー通りに出ていた。金髪のメアリーと白人のレオは、そこに座り込んだ。顔は、血と煤で、人相を失っている。ここは危ないわ、もう少し離れましょうと日本の女性が促した。中国人が、メアリーに手を貸した。日本人女性が誘導したのは、トリニティー教会だった。そこでは、牧師たちが、避難して来た人々に、ペットボトルの水を配り、動けぬものは、礼拝堂に運び込んでいた。助かったと涙が溢れてきた瞬間、南タワーのビルが轟音を立て、黒田の双眼の中で砂糖菓子のように脆(もろく)く崩れ、白い粉塵の津波が地上を襲った。もう一方の出口に向かっていたら、塞がっており、後戻りしていたら、崩壊したビルの瓦礫に、埋まっり、永遠に死体は発見されていなかったかもしれない。