インドのCountercurrentsが今日掲載した、「The Empire Below Deck(甲板下の帝国)」。執筆は、法学、宗教学、国際政治学を教える、パキスタンのイスラマバードにあるイスラムと脱植民地化研究センター(CSID – https://csidpk.org)の所長を務めるジュナイド・S・アフマドJunaid S. Ahmad教授。

 

          

 空母「エイブラハム・リンカーン」と米空軍のB-52H「ストラトフォートレス」が、アラビア海で合同演習を行っている。[AP通信写真/広報専門兵1等兵 ブライアン・M・ウィルバー]

 

 

この米国の空母は、他国を威嚇するために建造された。しかし、USSエイブラハム・リンカーンは、それとはかけ離れた、はるかに多くのことを物語る存在となってしまった。それは、世界の半分を爆撃出来るほどの強大な帝国を象徴する「浮かぶ記念碑」である。しかし、その帝国は傲慢すぎて、手一杯すぎて、政治的に病んでおり、爆撃の任務に送り出された人々を適切にケアすることさえ出来ないのだ。

その象徴性は、その完璧さゆえに、ほとんど下品なほどである。

原子力超大型空母――これまでに建造された組織的暴力の手段の中でも最も洗練されたものの一つ――がイラン近海を徘徊し、航空機を発進させながら、地球上の事実上あらゆる場所に到達出来るというワシントンの能力を誇示している。一方、甲板の下では、水兵たちが疲労、精神的負担、劣悪化する環境、そして終わりが地平線の彼方に消え去ってはまた現れるという展開の苦痛に耐え続けている。

米国の覇権を目の当たりにせよ――精巧な機械、限りない野心、そして疲れ果てた人間たち。

この矛盾は偶然のものではない。それは、帝国を縮図として映し出しているのだ。

空母は、海上に浮かぶ政治的神学である。それらは、米国が至る所に存在すること、海が指揮の高速道路であること、そしてワシントンの監視の目を逃れるほど遠く離れた国など存在しないことを宣言している。大統領たちは、それらを「信頼性」の鋼鉄の具現化として誇示する。将軍たちは、カジノのチップのように地域間でそれらをやりとりする。シンクタンクの戦略家たちは、機械の臭いを嗅ぐことも、乗組員の誕生日を気にかけることも、甲板下の心理的な荒廃について考えることもなく、地図の上で空母を動かしている。

そこにこそ、その醜悪さがある。

米国の支配層にとって、戦争は抽象的な概念に過ぎない。しかし、水兵たちにとっては、それが生そのものなのだ。

リンカーン号には約5000人が乗船している。乗組員たちは数ヶ月にわたる航海と長期にわたる戦闘任務に耐えて来た。家族たちは、乗組員たちが極度の疲労や精神的な苦痛に苛まれていると語っている。ある水兵は海に転落した後、救助されたが、親族からは他にも憂慮すべき事件があったとの指摘がある。海軍は、自殺が広範囲に及ぶ危機であるという主張を否定している。

そうだろう。しかし、官僚的な論争では、より大きな現実を隠し通すことは出来ない。すなわち、ワシントンは、その帝国主義的な責務が政治的な良識の範囲を超えてしまったために、人間を酷使しているのだ。

国防総省はこれを「即応態勢」と呼んでいる。

当然のことだ。

帝国には、機能不全を偽装するための見事な語彙がある。疲労は「犠牲」となり、過度な拡大は「決意」となり、戦略的失敗は「抑止力」となり、無期限の派遣は「義務」となる。そして、人間がその重圧の下で崩れ始めると、その負担を課した組織は、彼らの「回復力」を称賛するのだ。

支配層は、自らの無能さを他者の英雄的行為へとすり替える術を極めた。

米国が維持しているのは、領土防衛のための軍隊ではなく、世界規模の強制力を行使するための機構である。数百カ所に及ぶ海外基地、空母打撃群、爆撃機部隊、諜報ネットワーク、地域司令部、そして大陸をまたぐ恒常的な戦争計画。ワシントンは、イランと対峙し、中国を封じ込め、君主制諸国を安心させ、イスラエルを守り、ロシアを包囲し、海洋をパトロールし、昨日の大惨事を処理しつつ明日の危機に備えなければならない。

いずれは、帝国でさえ、至る所に存在し続けることには莫大なコストがかかることに気づくものだ。

リンカーン号の交代要員として、西太平洋からジョージ・ワシントン号を派遣するという決定は、この茶番を見事に象徴している。中東で1隻の空母が消耗したため、別の空母がアジアを離れてその代わりに行かなければならないのだ。ワシントンは、ある戦略的穴を塞ぐために別の穴を開け、その作戦を「柔軟性」と称するプレスリリースを発表する。

これは全能などではない。

それは、アビエイターサングラスをかけた、身の程知らずな振る舞いに過ぎない。

そして、地政学的な舞台の裏側には、階級的な権力が横たわっている。こうした派兵を命じる者たちは、その苦しみを自ら味わうことはない。大統領はシャンデリアの下で演説し、閣僚たちは厳粛な声明を発表し、防衛関連企業は収益を数え、テレビに登場する将軍たちは「許容可能なコスト」について議論する。

下士官の海軍兵士こそが、その「許容可能なコスト」となるのだ。

彼は米国の外交政策の渦中で眠り、彼女はそこで結婚記念日を逃す。彼らはその仕組みを体内に取り込み、単調さに耐え、不安を吸収し、世界支配という華やかな構造の中に、驚くほどの疲労、孤独、そして産業の汚れが潜んでいることに気づくのだ。

帝国主義は、衛星から眺めると常にきれいに見えるものだ。

したがって、水兵たちは単なる英雄でもなければ、単なる悪役でもない。彼らは強制的な権力の執行者であり、同時に、その権力を行使する機構の中で使い捨てにされる構成要素でもある。共感には、罪の赦しは必要ない。必要なのは、誰が誰を殺すために送り出し、誰が利益を得て、誰が決定し、誰が代償を払うのかを理解することだ。

米国の軍国主義は、戦争は「どこか別の場所」で起きていると米国人に信じ込ませることで存続している。

爆弾は「どこか別の場所」に降り注ぐ。病院は「どこか別の場所」で崩壊する。家族は「どこか別の場所」で悲しみに暮れる。

しかし、長期化する戦争には、不眠症や夫婦関係の破綻、心的外傷、そしてそもそもなぜ自分たちが戦地に送り出されたのか理解出来なくなった息子や娘たちという形で、故郷に忍び寄ってくるという厄介な習性がある。

それこそが、ワシントンが最も恐れる問いである。「なぜ?」

なぜ我々はここにいるのか? なぜ米国の「安全保障」には、米国の海岸から数千マイルも離れた場所での恒久的な軍事的支配が必要なのか? なぜ遠く離れた紛争のすべてが、米国の信頼性を問う国民投票になってしまうのか? そして、なぜその信頼性を維持するためには、常に政策決定者よりも力のない誰かが、そのために血を流さなければならないのか?

その答えはますます明らかになって来ている。

帝国とは、自らの正体を認めることなくして、限界を認めることは出来ないからだ。

だから、それは続く。さらなる兵力の展開。さらなる敵。さらなる「決意」。そして、尽きることのないはずの国家の力が、彼らを疲れ果てさせていることを証明するかのように、疲れ果てた水兵たちがさらに増える。

甲板上:轟音を立てるジェット機、原子力推進、数十億ドル規模の技術、帝国的な演出。

甲板の下:疲労、不安、そして帰郷を待ちわびる人間たち。

弾薬庫は相変わらず武装を極めている。

しかし、飛行甲板の下では、腐敗の臭いを隠し通すのが難しくなりつつある。

 

フヨウ