植物は寒さが遠のくとたちまち生育して来る。その勢いには本当に驚かされる。庭の1日見なかった位置の花木がもうすっかり伸びて来ていたりする。今年は藤の花がたくさん咲き、ヤマシャクヤクやヤマアジサイなどが葉を茂らせて来ている。職場の裏山でも、もう山藤と桐の花の紫が目につくようになっている。市街地周辺の山々の若葉も日増しに色を濃くして来ている。花木だけでなく、雑草も見る間に伸びて来ており、そんな雑草を見て、ふと松尾芭蕉の「夏草や つわものどもが夢の跡」の句を思い出した。この句は1689年3月27日(新暦5月16日)、45歳の芭蕉が門人の曾良とともに江戸を発って、5月13日(新暦6月29日)、平泉の義経のいた高館で詠ったとされる。奥州藤原氏三代の栄華は露と消え、500年後に同じ場所に立ってみると、夏草だけが生い茂っている。芭蕉は平泉でもう一つ詠っている。「五月雨の 降り残してや 光堂」で、「光堂」は中尊寺の金色堂を指す。金色堂だけは五月雨にも朽ちずに残っている。松尾芭蕉の生家は現在の三重県伊賀市の帯刀を許された農民であった。18~19歳で俳諧を始め、30歳頃まで京都や伊賀で俳諧を学び、以後は江戸に出ている。当時の江戸の俳諧は滑稽の機知や華やかさを詠むもので、芭蕉には合わず、江戸市中を避けたところに草庵を結ぶ。この草庵に芭蕉を植えて、見事に育ったところから、芭蕉庵と呼ばれるようになり、自分でも「芭蕉」と名乗るようになった。40歳の時、母親の墓参りを兼ねて、奈良、京都、名古屋、木曽を巡っている。この時詠んだ句が『野ざらし紀行』として知られる。44歳で高野山、吉野(西行庵)、奈良、須磨・明石を旅して、『笈の小文』が綴られている。同じ年の秋には信州を旅して、『更科紀行』に結実している。翌年初めから、旅への思いが抑えきれず、特に東北への旅の思いが強かった。旅の準備を整えて曾良とともに東北から北陸にかけてを旅した。芭蕉では最もよく知られる『おくのほそ道』がこの旅で綴られた。福島、宮城、岩手、山形、北陸地方を経て、岐阜・大垣に至る2400km、7ヶ月の旅であった。現代とは異なり、こうした旅はまさに命をかけた旅であった。福島市の飯坂の温泉を浴びたのはいいが、宿は土間にむしろを敷いただけの宿で、灯りも囲炉裏の火の明かりだけであり、夜半には雷と激しい雨で雨漏りがし、ノミや蚊に刺されて、眠れぬ夜を過ごし、体調を崩している。道端で野垂れ死にしても天命だと覚悟するまでの旅であった。ここまでになっても芭蕉にはどうしても訪れたいところであったようだ、東北は。


今朝の庭の藤の花