5年前も今日と同じように晴れた金曜日であった。定期的にこれまで話をして来た高齢の大先輩がその5年目を目前に脳梗塞で倒れられた。右半身麻痺で口からの食事が出来なくなり、胃瘻と言う管を通して流動食を摂ることになった。東京の生まれで、戦前は中国の大連にも住み、戦後間もなく結婚して釜石に嫁いで来られた。嫁ぎ先は釜石の老舗で、岩手でもこの店を通さなければ購入出来ない品物さえあった。そんな老舗が脆くも津波で流されてしまった。大先輩は釜石での歴史の全てを失ってしまわれた。思い出の手紙や写真すらなくなった。地震の直後、大先輩はその家におられて、最初は避難することを拒まれた。しかし、息子さんの強い誘いにようやく腰を上げ、高みにある近くの親戚筋に避難された。仮設住宅が建つと息子さん夫婦と3人でそちらへ移られた。しかし、釜石でのそれまでの過去の全てを失った苦痛は簡単には癒されず、何度か体調を崩しては病院への入退院を繰り返された。結局は長期療養目的で入院生活をされることになった。そんな入院中の大先輩と定期的にお会いして、様々のお話をして来た。入院されておられても、身体はとても90歳にもなる方とは思えないほどで、頭脳もとても明晰な方であった。しかし、それだけに繰り返し、震災で失った過去を思い出さざるを得ず、それが精神的な落ち込みを招いて来た。この5年のうちに片側の目も不自由となり、好きであった読書もままならず、世の中の動きをTVの音声で知るような毎日になった。終日ベット上で座位で過ごされていることが多く、結果として、それが足の血流を悪くして、脳梗塞につながったのではないか。ご本人は寝たきりになるような状態にはなりたくはないので、万が一の時には手を尽くさないことを望まれていた。しかし、いざとなると、ご家族の気持ちもあり、こうした問題はなかなか難しいところがある。大先輩の年代は戦中は辛い青春時代を過ごされ、戦後も艦砲射撃で焼け野原となった釜石に嫁ぎ、やはり苦労をされて来られた。釜石の他の商店同様新日鉄の全盛とともに家業も発展していた。しかし、その新日鉄も撤退し、釜石の経済は落ち込んだ。それでも息子さんが引き継いで頑張っておられた。そんな時にあの津波が何もかもを奪って行った。「復興」では被災した人たちの記憶や苦悩を満たすことは出来ない。まして亡くなった人は戻っては来ない。生きている我々が出来ることは、もう二度と同じ被害をもたらさないことのはずだが、現在の「復興」では必ずまた同じ被害をもたらしてしまうだろう。大先輩とはこの5年間にそんなことも話題にした。
場所を変えて再建される市民文化会館