昨夜降った雪が朝には10cmほど積もっていた。まだ寒さはもちろん感じるが、最近の日射しはもう確実に春の明るい日射しになっている。昨日はそんな日射しの中を歩いていると、梅が咲いていた。やはり今冬は例年より早く咲いている。雪は降っても、もう春が間近に来ている。東北の冬は長いが、それだけに春の喜びは大きくなる。その春の到来を花たちが教えてくれる。明るい日射しを浴びる庭の木々を見ていると、木々が風に吹かれて、その影も動く。そんな影の動きを見ていて、ふと仏教の「一如」や「不二」と言う言葉が浮かんで来た。木そのものとその影は一体である。まさに「形影一如」であり、「而二不二」と言うことなのだろう。仏教ではよく、一見対立する概念が同じものだとする。これは科学の手法とは正反対である。科学は物事を分ける分析的手法をとる。20世紀は急速にその科学が発展し、我々の生活を大きく変えた。生活の中には自然界にはない物で溢れるようになった。いずれも科学が生み出したものだ。大都市はむろん、地方の小さな町でさえその構成されたものは自然界にはないものだ。道路や建物、高層ビル全てが科学によって作り出された。物だけではなく、労働もまた分析的な手法で行われるようになった。その方が効率が良いからだ。こうして物も精神も分析的になったのが20世紀だとも言える。しかし、実際に人間が目にし得る自然は変わらず、いつまでもそこにある。その自然は現代人だけではなく、親鸞や道元も見た自然だ。彼らの精神は分析ではなく、統合に赴いた。「生死一如」とか「心身一如」「迷悟一如」など人が生きる時、別々に見えても、同じものなのだと考えた。生あるものには必ず死があり、心と身体は一体である。二つの面があっても、その本質は「 一」である、と考えた。「分析」ばかりに疲れた時、変わらずそこにある自然に触れると癒されるのは自然の中に「統合」を見ているのかもしれない。「分析」に溢れた現代人の精神には「統合」が必要なのかもしれない。揺れる木々の影が今日はそんなことを想起させた。


雪の積もった朝の庭の椿