古田武彦氏の九州王朝説は「説」ではなく、もうそれが史実であると確信させてくれるものだ。親鸞研究で培った史料批判の目で、中国の史書や日本の古事記、日本書紀から導き出した。今なお、日本の歴史学会はそれを無視し続けている。批判すらしない。とんでもないもとして見ているのか、いや、そうではないだろう。古田氏の著作の一つでも読めば、それは分かるはずだ。日本の正史である記紀に基づいて、天照以来天皇家が日本を統治して来た、とする日本史を基本的に構成して来たため、今更否定が出来ないのだ。しかし、古田氏はそうした日本の天皇家一元史観の虚像を見事に打ち砕いた。日本の古代には幾つかの王国があった。出雲は縄文の王国であり、関東や東北、北陸にもそれはあった。中国の史書に見られる「倭国」は全て九州王朝を指し、その九州王朝は長く中国の南朝に従って来た。その南朝が滅んで北朝系の随が登場すると、九州王朝の天子、多利思北孤は随に対しては対等の姿勢をとり、隋の皇帝煬帝に宛てた国書で、「日出処の天子、書を没する処の天子に致す。 つつがなきや」と書いて、煬帝を怒らせた。しかし、その後の九州王朝は朝鮮半島の百済を助けるためにやはり北朝系の唐と新羅の連合軍と戦い、白村江の戦いで敗れ、ついには九州王朝の天子である筑紫君薩夜麻が捕虜となり、この戦いに参加しなかった大和の勢力が唐と結んで、九州王朝に替わって、「日本」を名乗り、701年以後日本を統治することとなった。天照から白村江の戦いで敗れた倭国までは全て九州王朝の歴史であり、従って、天照は現天皇家とは無縁である。古事記や日本書記が九州王朝の史書から盗用した史実だ。この二書には多くの史実が九州王朝の史書から盗用されている。『隋書』「俀国伝」に「開皇二十年 俀王あり、姓は 阿毎 、 字は多利思北孤 、 阿輩雞弥と号す。使いを遣わして闕に詣る。」とあり、開皇二十年は西暦で600年になり、この多利思北孤を通説は聖徳太子として来たが、聖徳太子は王ではない。しかもこの年に随書では遣隋使を出しているが、古事記、日本書紀にはその記載がない。法隆寺金堂にある釈迦三尊像光背銘の「上宮法皇」も聖徳太子ではなく、同じく九州王朝の天子、多利思北孤のことである。「太子」は「法皇」などではない。九州随一の仏像彫刻の宝庫とされる福岡県太宰府市の観世音寺や太宰府政庁と同じく法隆寺もまた南朝尺で建てられており、現在の法隆寺は九州から移築されたものであることは建築家の米田良三氏がその著書『法隆寺は移築された―大宰府から斑鳩へ』で見事に明らかにされている。同氏はまた未読だが、続編で紫式部の『源氏物語』の舞台が筑紫であったことも述べられているようだ。今もなお日本の歴史教科書は基本的に明治以来の天皇家一元史観を生徒たちに教え続けている。



