朝、晴れていたが、庭の水溜まりはむろん、犬の飲み水までこの冬はじめて凍っていた。庭の土には霜柱も立っていた。水落をしていた庭の水道まで凍ってしまっていた。仕方がないので湯をかけて融かした。風もいつもより強く冷たい。最高気温は3度だった。内陸では一日氷点下のところが出ている。一気に気温が下がり冬に突入した感じだ。晴れて日射しが出ていても、外に出るのが億劫になって来る。 和田家資料4『北斗抄 十~総括』「荒覇吐王国之盛亡抄」の項に「倭国、故国称を邪馬台国と曰ふ。初めなる王を邪馬止彦王と号し、荒覇吐神を信仰す。国能く治まり、従う小国百八十あり。信仰の一統なりて、天地水の三神を全能神とて崇拝せり。 安日彦王、長髄彦副王、即位の4年、筑紫日向国に高砂族の侵攻に敗れたる熊襲族王猿田彦を誅伏なしたる高砂族は、佐怒を王となし、民族を併せ、日向高千穂峰に即位の式をなせり。然る後、筑紫を一統なし、更にして、日下本州を一統せんとし、兵を進めたり。依て、是に邪馬台国を護るは、三輪の安日彦王、膽駒山の長髄彦王にて、五年の戦にて、故地を放棄なし、日高見国に、天地安住を求め、傷付きし弟長髄彦を會津にて治し、更に奥州東日流に落着せり。 先住なる阿曽辺族、津保化族らを農耕を以て併せ、茲に荒覇吐族とて新王国を誕生せしめ、安日彦一世と相成りぬ。」の記述があり、天明二年(1782年)八月十八日 和州富川村白谷里 磯城甚右衛門 の署名がある。そして続いて「筑紫豊之国耶馬壹王」と題する一文がある。「豊州宇佐に耶馬壹王ありて、熊襲族王、古代より国治す。日向王猿田族王猿田彦、海渡民高砂族に侵略されしより、筑紫九国の王国みな一統さる。依て、筑紫五王の耶馬壹王、宇佐の合戦にて佐怒に敗れ、耶馬壹国亡ぶ。王代六十二代と曰ふ。」享保二年七月十一日 耶馬湲邑 三光秀季 とある。この二人の語る内容にはいくつか興味を惹かれる事柄がある。最初に、邪馬台国と耶馬壹国だ。中国の史書『三国志』の「魏書」烏丸鮮卑東夷伝倭人条、通称「魏志倭人伝」には「邪馬壹国」の名が書かれている。卑弥呼の国の名だ。古田武彦氏によれば、『三国志』の最も古い版本である南宋代の紹煕本にははっきりと「邪馬壹国」と書かれている。「壹」であり、台の古い字体である「臺」ではない。にもかかわらず、江戸時代中期の儒医であり国学者でもあった松下見林が邪馬壹国」(やまいちこく)と原文に書かれているものを、「大和」と読めるようにするために「邪馬臺国」と書き換えた。以来、これが踏襲され、「邪馬台国」と言われている。しかし、古田武彦氏はあくまで原文通り、卑弥呼の国は「邪馬壹国」「邪馬一国」であり、「邪馬臺国」「邪馬台国」ではないことを明らかにされた。上記の和田家文書の二つの文を見ると、筑紫に「邪馬壹国」があり、三輪の安日彦王、膽駒山の長髄彦王の国が「邪馬台国」となっている。つまり九州に「邪馬一国」があり、大和に「邪馬台国」があると言う記述だ。ただ二つの国の時代はかなり年代差があり、安日彦・長髄彦の「邪馬台国」が古く、卑弥呼の「邪馬一国」が後になる。時代と場所が異なっている。古田武彦氏はさらに安日彦・長髄彦は大和ではなく、筑紫にいたと考えられておられる。しかし和田家文書は「三輪の安日彦王、膽駒山の長髄彦王」と明らかに大和の地名をそれぞれに与えている。これを考慮するとにわかには、この点では古田氏の考えには同意出来ない。卑弥呼の国は古田氏の主張される筑紫の「邪馬壹国」「邪馬一国」である。しかし、安日彦・長髄彦も同じく筑紫にいたとする考えは納得しかねる。今少し、和田家文書の判読が必要なのではないかと考えている。江戸期に和田家文書を編纂した秋田孝季らが、その当時の大和を訪れ、その地に残されていた伝承を聞き取って書き残したのだ。してみれば、やはり、大和には安日彦・長髄彦、荒覇吐神信仰の痕があったと考えられるのではないか。日本書紀は安日彦・長髄彦兄弟を逃がしてしまったことを伏せたのではないか。
甲子川をゆっくり上流に向かう番のヒドリガモたち