昨日と同じく今朝も氷が張り、霜柱の立つ寒い朝となった。西にはすっきりとした愛染山が見え、下の方まで雪で白くなっていた。午前中は一時青空が広がったが空気は冷たく、昼頃には雲が出て来て、日射しを遮った。予報では来週には最低気温がさらに下がり、中旬になるとー7度まで下がるようだ。そこまで下がると北海道と変わらなくなる。最高気温の方は北海道より高いだろうが。昼休みに甲子川まで歩いてみたが、風が冷たく、長くはいられなかった。川底のいたるところで力尽きた鮭が横たわっていた。夕方5時過ぎにまた宮城県沖の日本海溝よりずっと陸よりでM5.3の地震が発生し、釜石は前回と同じ震度3だった。M6を超えていないので津波の心配はなかったが、どうも金曜日は地震の起きやすい日のようだ。マヤ文明の終末論の日でもあり、そんな噂をする人もいた。 東北には6つの県がある。それらはさらに北の3県と南の3県に分けられ、南北で少し違いある。北東北は縄文文化の中心地になる。縄文時代の重要な遺跡があり、縄文言語と関連の深いと思われるアイヌ語の影響も強く残されていると考えられる。これまで、その縄文時代との関連から北東北に関心があったが、修験道の開祖とされる役小角(えんのおづの)を調べている中で、南東北になる山形県の出羽三山の修験に行き当たった。米どころである日本海に面する庄内平野の東南に北から羽黒山、月山、湯殿山の三山が並ぶ。釜石や遠野にもこれら出羽三山の修験の影響と考えられる石碑がある。出羽三山の修験は羽黒修験と呼ばれ、開祖は一般的には崇峻天皇(すしゅんてんのう)の第三皇子である蜂子皇子(はちこのおうじ)とされている。592年に父である崇峻天皇が蘇我馬子により暗殺された後、従兄弟にあたる聖徳太子の勧めで丹後国由良から船で逃れた。593年に現在の山形県鶴岡市由良までたどり着いた時、八乙女浦にある舞台岩の上で八人の乙女が舞う姿を認めて、近くに上陸した。そこから三本足の烏に導かれて羽黒山に至り、羽黒修験を開いたとされる。その後、さらに月山を開き、605年には湯殿山も開いた。しかし、一方では、本来の開祖はやはり崇峻天皇所縁の能除仙(のうじょせん)あるいは能除太子(のうじょたいし)と呼ばれる人であり、江戸時代に羽黒山の別当が能除仙と蜂子皇子を同一人物だとしたことから、以後、開祖は蜂子皇子とされるようになった、という説もある。『日本書紀』では越国守阿倍比羅夫がはじめて蝦夷を討ったのが658年である。従って、出羽三山が開かれた頃はこの地はまだ蝦夷の住む地であったはずであり、岩の上で舞っていた八人の乙女も蝦夷の乙女であったはずだ。古田武彦氏が見出したように700年以前はまだ九州王朝の時代であり、701年以後、大和の政権が東北の民衆を従わせるために、本来は別の由来であった羽黒修験を利用し、開祖である能除仙を崇峻天皇由来の人物だとしたのではないだろうか。羽黒修験側がむしろ大和の政権に取り入るために積極的に崇峻天皇に所縁のある人物とした可能性も強い。このあたりは東北に多く見られる坂上田村麻呂所縁の寺社と同じような事情だろう。現在残されている開祖とされる蜂子皇子の絵図では皇子が異様な姿で描かれている。肌が黒く、仁王のように目を見開き、野獣のような口で、まるで化け物のようだ。皇子とはとても思えない姿だ。この姿こそ本来の開祖の姿であったのではないだろうか。蜂子皇子が由良で上陸後、羽黒山に皇子を導いたとされる三本足の烏も熊野本宮大社に伝わる三本足の八咫烏(やたがらす)に因んで後から付け加えられた伝承ではないだろうか。熊野本宮大社の八咫烏の三本の足はそれぞれ天・地・人を表すと言われる。『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』では荒覇吐(あらはばき)の神は「天なるイシカ」、「地なるホノリ」、「水なるガコ」の三神とされる。そして同書では大和の三輪山にも荒覇吐神が祀られている。「天・地・水」の神だ。八咫烏の三本足も元はこの「天・地・水」であったのではないだろうか。後に「水」が「人」に変えられた可能性がある。


食事にいそしむヒドリガモたち