今日も朝から曇天が続いた。すっきりと晴れた日が少ない。気温も日中は過ごしやすいが夜になると外は寒くなる。庭で一輪だけ咲いた彼岸花を娘に教えてやると、早速、iPhoneのカメラで撮っていた。娘にも使わなくなったカメラを譲っておいたが、そちらよりも、どうやら最近はiPhoneのカメラの写りが気に入ったようだ。咲いているダリアなども撮った後、花と一緒に犬たちの写真も撮っていた。今日は日中から鹿が何度か鳴いていた。山から下りて来ているようだ。熊だけでなく鹿の餌も山では不足しているのかも知れない。山形や秋田でも今年は熊がよく出ている。 先日、遠野からもう何十年も釜石へ通勤している職場の方と話をした。その方の姓は遠野の地名にもなっており、先祖は古くから遠野に住んでいたのだろう。今の遠野の風景や伝統芸能の多くは南部氏が遠野を領地としてからのものだと思われる。南部氏が遠野を直接支配するようになったのは1627年に盛岡新田藩から根城南部家に養子として入った南部直義が、盛岡の南部利直の命により遠野へ移封となり、遠野の鍋倉城に入城したことに始まる。南部氏が遠野を領有する前には遠野や釜石は阿曽沼氏が支配していた。さらに阿曽沼氏の前は奥州藤原氏の勢力下にあり、奥州藤原氏の前には安倍氏の領地であった。遠野にはカッパ淵のそばに安倍館跡が残されている。また安倍氏最後の頭領であった安倍貞任の名に因んだ貞任高原が今もある。遠野に限らず、安倍氏と奥州藤原氏の時代までは東北は京から半独立の状態を維持して、固有の文化と繁栄を保っていた。大きな争いもなく、大陸との交易も盛んに行われていた。豊富な鉄や金などの地下資源にも恵まれていた。しかし、河内源氏であった源頼義は東北への野心を持ち、前九年の役で安倍氏を滅ぼした。もっとも、朝廷は彼の野心を満たしてはくれず、伊予守に任じ、陸奥守の再任は成らなかった。安倍氏が滅んだ後、奥州藤原氏が興隆し、京にも匹敵する都市づくりを行い、富も築くと、源頼義の血筋を引く、源頼朝は義経成敗を口実に奥州藤原氏を滅ぼし、奥州藤原氏の富を得て、鎌倉幕府を成立させるとともに、奥州藤原氏討伐に貢献した関東周辺の武士たちに東北の地を分け与えた。この時、下野国安蘇郡阿曽沼郷の阿曽沼広綱は頼朝の奥州征伐に従軍して功があり、1189年陸奥国閉伊郡遠野保を与えられた。岩手県周辺は同じく、すでに受領されていた閉伊氏以外は和賀氏、葛西氏、稗貫氏、二階堂氏なども領地を与えられている。ただ北部の糠部郡や久慈郡は北条氏の直轄領となっている。かっては南部氏も奥州藤原氏討伐で手柄を立てて、領地を与えられた、と考えられたが、奥州藤原氏討伐の30年後の1219年に現在の青森県の糠部郡へ郎党を引き連れて入っている。北条氏の命で領地を得たか、地頭代として赴任したと考えられるようだ。南部氏は豊臣秀吉が北条氏が立て篭る小田原城を攻めた時に、秀吉に参戦し、その手柄で、1590年の奥州仕置により秀吉から糠部郡、閉伊郡、鹿角郡、久慈郡、岩手郡、紫波郡を与えられ、領地を拡大している。この際、遠野保も与えられたのではないか、とされるが、この時点ではまだ遠野保は阿曽沼氏が領有していた。ただ阿曽沼氏は小田原城攻めには参加しなかったため、秀吉から南部氏の付庸とされてしまった。以後、南部氏はこの阿曽沼氏の領地である遠野保へも野心を持つようになり、阿曽沼氏の一族である鱒沢広勝らの謀反を助けた。1600年、400年続いた遠野阿曽沼氏の最後の頭首阿曽沼広長が悲運の中に現在の住田町にあった世田米城で死を迎えると、実質的に遠野保は南部氏の手中に落ちる。阿曽沼氏は下野国(栃木県)安蘇郡阿曽沼郷出身であり、南部氏は甲斐国(山梨県)巨摩郡南部郷の出身である。従って、今の遠野や釜石には栃木県と山梨県の風習が伝わっている可能性がある。
この地域独特の小粒の柿が色付き始めた