昨日の雪に続き、今朝は庭に氷が張った。ー4度だ。本格的な真冬なみの寒さだ。はじめて岩手で冬を過ごす北海道生まれの娘が今朝は「こんなに寒いんじゃ私岩手で生きて行けない」と冗談を言っていた。北海道の方が暖房が行き届いていてずっと部屋の中は暖かいのだ。今の時期のこの寒さは岩手でも珍しい。上空にー12度の寒気がやって来ているらしい。明日からはまた平年なみに戻ってくれそうだ。1825年南部利済(としただ)が第12代盛岡藩藩主になると、藩の財政改革と称して積極的でかつ無謀とも思える政策を打ち出し、一方で贅沢を行ったため、凶作にあえぐ農民たちからさらに重税を取り立てた。1847年には閉伊に農民たちの一揆が起きたため、長男の南部利義に藩主の座を譲り、隠居したが利義と対立し、2年後には利義に代わって三男の南部利剛(としひさ)を藩主につけ、自分は院政を続けた。この南部藩主親子の確執の中で長男の南部利義を支持した南部藩医師江幡春庵(えばたしゅんあん)が南部利済の側近田鎖左膳により捕らえられ、獄死した。この江幡春庵の弟が江幡梧楼である。18歳で藩主南部利済の近習となったが、翌年すぐに脱藩し、江戸、京都などを周り、吉田松陰、桂小五郎らとも交友を結んだ。(後に渋沢栄一との縁で明治政府の大蔵省、文部省に那珂通高(なか みちたか)の名で出仕する。)ペリーが浦賀へ来航する前年の1852年1月5日22才の吉田松陰は兄江幡春庵の敵を討つという江幡梧楼や熊本藩士宮部鼎蔵(ていぞう)とともに藩の許可が下りるのを待たず脱藩した形で陸奥への旅に出る。水戸から白河へ向かい、ここで江幡梧楼と別れる。その後会津若松、佐渡、秋田久保田城下、大館、弘前へと向かい、五戸を通って盛岡へ入っている。4月30日盛岡では江幡春庵の遺族を見舞い、周囲に板塀が張られた、遺骸の納められた香殿寺を外から拝した。吉田松陰はこの陸奥への旅の中で1822年弘前藩主津軽寧親の暗殺を謀り、幕府に捕らえられ、刑死した盛岡藩士下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)の暗殺未遂現場である陸中国鹿角郡花輪(秋田県鹿角市)をも訪ねている。江幡春庵、下斗米秀之進それぞれを歌った歌も作っている。若い吉田松陰はこららの「義」なる者たちに強く感じるものがあったのだろう。そしてこれらのことがまた後の松蔭自身の死にも繋がっていたのかも知れない。(嘉永五年東北―吉田松陰『東北遊日記』抄、近代デジタルライブラリー『東北遊日記』参照)

悠久の時を流れ続ける北上川