今朝は庭の水道が少し凍りかかっていた。空気も冷たい。天気は良さそうなので放射冷却による気温低下なのかも知れない。山茶花の花もあちこちで見るようになったし、12月に入ると例年イルミネーションが見られる場所では今年もまた夜に華やかさをもたらしてくれている。これまで時々「扶桑」という言葉を耳にして来ていたがあまり確かな知識も無く、そのままやり過ごしていた。東北の歴史だけでなく、出身地愛媛、「伊予」の古代史にも興味があり、調べていると、大山祇神社と越智一族について書かれた『伊予三島縁起』に「扶桑州は日本列島の東北部にある国家を指す」ことが記されていると言うことを知った。中国正史の一つに『梁書』(りょうじょ)がある。中国の南朝である梁(502年~557年)の国の歴史が書かれたものだ。列伝第四十八 諸夷に「倭」とともに文身国、大漢国、扶桑国のことが書かれている。永元元年(499年)、扶桑国の僧慧深(えじん)が中国の荊州にやってきた。倭国の東北7000余里に文身国が、その東5000余里に大漢国があり、大漢国の東2万余里に扶桑国があると慧深が述べた。ここで書かれている1里をほとんどの注釈書は漢の里である434mを基準にして考えているため、遠く米大陸に扶桑国があったとなり、この時点でまともに扶桑を取り上げる学者はいなくなる。しかし、梁は南朝であり、古田武彦氏が魏志倭人伝で示されたように、南朝は短里を使っていて、1里は70~80mほどであり、『伊予三島縁起』に言う「扶桑は日本の東北」であるということも真実味を帯びて来る。さらに、『梁書』では大明2年(458年)にケイ賓国(ガンダーラ・カシミール近辺)から5人の僧が扶桑国へ来て仏典と仏像をもたらしたことを慧深が述べたと記されている。「扶桑」の意味を大辞泉で調べると「扶」は「広がって大きい」と言う意味がある。「桑の木が広く一面に植えられて大きく育った国」と言うほどの意味ではないだろうか。「扶桑」そのものの意味に仏桑花(ぶっそうげ)の別名と言うのがある。仏桑花は「ハイビスカス」だ。扶桑の意味が仏桑花であれば扶桑国は南国になければならなくなり、慧深が述べた位置とは異なって来る。従ってやはり「扶桑国「の意味は「桑の木が広く一面に植えられて大きく育った国」ではないかと思う。扶桑の東1000余里には女国があると言っているので、扶桑国は関東北部から東北、北海道南部までの日高見国を指すのではないだろうか。扶桑国が日高見国であれば日本書紀が記す仏教伝来年、欽明天皇13年(552年)より、100年も早く東北へ仏教が伝わっていることになる。現在でも北海道で大きく育った桑の木を見ることが出来る(厚岸町には天然記念物の桑並木がある)。「扶桑国」では「扶桑の葉は桐に似て、生え始めはタケノコのようで、扶桑国人は食用にする。実は梨のようで赤く、その皮を績いで布にして衣類や綿にしたり屋根を葺いたりする。文字はあり、扶桑の皮でできた紙に書く。城郭はなく、兵士や武装はなく、戦争をしかけない。」(Wikipedia)

葉の散った白樺の木

葉の散った白樺の木