1990年に実施された新潟県の八幡林遺跡の発掘調査で「沼垂城」(ぬたりのき)と墨書された薄板が出土し、注目された。日本書記という史料でしか確認されていなかった史料上最古の「柵」が実在する事が示されたからだ。日本書紀によればいずれも越後国にある647年に置かれたとされる渟足柵(ぬたりのき)=沼垂城、翌年設置されたとする磐舟柵(いわふねのき)、そして658年設置の都岐沙羅柵(つきさらのき)などが古い柵となり、その後は709年の出羽柵まで史料上は設置されていない。7世紀に設置された越後国の3つの柵もどこにあったのか場所は現在も比定されていない。仙台市の郡山遺跡群は東西約800メートル、南北約900メートルにもなる約60ヘクタールの遺跡で官衙とその付属寺院の跡とされている。早期のものは7世紀中葉から7世紀末葉であり、概ね越後国の3つの柵が設けられた時期に当たる。付属寺院まで備わり、構造的に律令制下の国衙や郡衙とも異なっていて、正史にも載らないこの大規模な遺跡を越後国の3つの柵同様にあくまで近畿王権によって設けられたものとしかみなされていない。東日流外三郡誌をはじめとする和田家文書からするとむしろこれらの柵や遺跡は東北の「蝦夷」により設けられた可能性が高い。仏教を重んじた安倍氏や奥州藤原氏は自分たちの来歴を記した古文書を有していたはずだ。しかし、一瞬にして津波により崩壊した十三湊や頼朝の攻撃にさらされて消滅した平泉は安倍氏や奥州藤原氏に関する古文書をすべて失ってしまった。あるいは奥州藤原氏についての古文書の一部は頼朝の手から都へ渡った可能性もあるかも知れない。どちらにしても都では東北の栄華は認められるものではなかったはずなので、東北の史実は尚のこと伏せられてしまっただろう。古田武彦氏の説くように7世紀以前の史実に属するものは大いに疑ってかかる必要がある。教科書的には7世紀はすでに近畿王権の支配が東北に伸びて来ていたとされるからだ。

淡い秋

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