職場の近くの薬師公園は桜の葉が色付き、日射しに輝く。時々、風で舞いながら落ちて行く葉の数が日ごとに増えて行く。晴れた比較的風のない日には公園の石段に集まって座る老人たちの姿を見ることがある。すぐ近くにはいくつもの石碑群がある。青森県五所川原に残された「和田家文書」では三内丸山遺跡で見出された六本主柱の堀立三階の高樓をヌササン(祭壇)と称し、最上階には宇宙より落下した隕石を天なるイシカカムイ(宇宙一切神)として安置したと言う。また太古の伝承は全て語り部が伝え来たが、その語り部も、中には沿海州へ渡り、アムール川を遡上して興安嶺を抜け、バイカル湖を通って、黒海を過ぎ、ギリシャのオリンポス山を訪ねた者もいて、そうした語り部は口伝師として特に尊敬を得たと言う。そして、驚くことに「和田家文書」を残した秋田孝季自身もこのルートをたどりオリンポス山に立っている。ところで鉄器は紀元前1680年、西アジアに建国されたヒッタイトによりもたらされたと言われていたが、そのヒッタイトの国は現在のトルコがあるアナトリア半島にあった。一昨年、トルコのカマン・カレホユック遺跡で、紀元前2100~1950年の地層から、小刀の一部と見られる鉄器1点が発見され、ヒッタイトが建国される以前にすでに鉄器が作られていたことが明らかになった。カマン・カレホユック遺跡で20年来発掘調査を進めて来た日本チームの発見であった。この鉄器の分析を行った東京理科大のチームは、発掘された小刀が紀元前2300年頃の黄金の柄をもつ鉄製のもので、最大7%ものニッケルを含み、鉄鉱石を精錬して作ったものではなく、隕鉄を用いてつくられた鉄である可能性の高いことを明らかにした。数千年前には、現在よりはるかに多量の隕石や隕鉄(含鉄隕石)のかけらが地表に存在していたと考えられ、精錬法が見出されるまではこの隕鉄により鉄器が作られていたと思われる。ヒッタイトは鉄器と騎馬、戦車に秀でていた。語り部がオリンポス山へ至るルートで、列島では最も早く津軽、東北へ鉄器や騎馬が入っていた可能性が十分考えられると思う。

落ち葉