「えみし」は古くは毛人と書かれ、後に蝦夷と書かれた。蝦夷はえみし、えびす、えぞと読まれる。いずれにしても「えみし」は一般には卑字が当てられていると見られて来た。毛人は中国の史書に記されており、中国は他国には卑字を当てて来た。日本の正史である日本書紀も当然のごとく「えみし」を蝦夷の字で表し、中国と同じ態度で字を当てた。しかし、日本書紀の神武紀では「愛瀰詩烏 毗儾利 毛々那比苔 比苔破易陪廼毛 多牟伽毗毛勢儒」「愛瀰詩(えみし)を 一人 百(もも)な人 人は云えども 抵抗(たむかひ)もせず」と神武に高々と詠わせているがここでは「愛瀰詩(えみし)」の字が使われ、むしろ雅のある字が当てられている。古田武彦氏によればこの久米歌は本来は神武の東征時の歌ではなくアマテラスの孫のニニギによる北部九州侵略時の勝利を詠ったものだとされる。「えみし」はその時に侵略された人たちを指す。自ら「えみし」と称えていたと考えられる。むしろ「えみし」は誇りをもって自称されたのだろう。実際、蘇我氏の氏長である蘇我蝦夷(そがのえみし)あるいは蘇我豊浦毛人(そがとゆらのえみし)、東大寺の造営、長岡京遷都で活躍した佐伯今毛人(さえきのいまえみし)、小野妹子の子で太政官と刑部大卿を兼務した小野毛人(おののえみし)など貴人や高官が堂々とその名を使っている。従って「えみし」は決して卑下される名ではなく誇り得る名であったと考えられる。ニニギによって侵略された北部九州の「えみし」たちは「えみし」の名と「日の本」の名を持って安日彦・長髄彦に率いられて東日流(つがる)=津軽へ逃れた。(東日流は日の本が東へ流れることを意味する)『明治前期、全国村名小字調査書、第四巻<内務省地理局編纂善本叢書33>』(ゆまに書房刊)では筑前国那珂郡屋形原村日本(ヒノモト)、筑前国那珂郡板付村日ノ本(ヒノモト)、筑前国早良郡石丸村日ノ本(ヒノモト)、筑後国生葉郡干潟村日本(ヒノモト)、筑後国竹野郡殖木村日本(ヒノモト)と北部九州に集中して「ひのもと」地名が残っているという。これはちょうど日本列島で最大の弥生前期の水田地帯板付(遺跡)の中心にあたる。『東日流外三郡誌』では安日彦・長髄彦以来の国を「日下(ひのもと)」或いは「日本(ひのもと)」と言い、「わたしたちの国は、『ひのもと』という名前である。」ことが繰り返し出て来る。そして彼らが稲作も同時に津軽へもたらしたことが記されている。青森県弘前市の弥生前期の砂沢遺跡や青森県南津軽郡の弥生中期の垂柳遺跡の稲作跡がそれを示していると言える。安日彦・長髄彦らの後に続く安倍・安東氏らもまた「日の本将軍」と称している。「えみし」の名は縄文後期から北部九州で稲作を行っていた人々が誇りを持って自称していたものであり、ニニギたちの侵略を逃れて津軽へ落ち延びた人々に受け継がれたものであると考えられる。「えみし」とアイヌは従って異なっており、最近のDNA分析結果でもアイヌはほとんど北海道内に留まっていたとされ、一部は一時的に東北北部にもいた程度のようだ。これは以前から記している本州側にアイヌの文化が残っていないことと符号している。

黄梅 梅の字が入るがジャスミン科の花で中国では迎春花と言われる

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