JR山田線というのがあるがこれは釜石を太平洋沿岸に沿って北上し、宮古で西へ転じて盛岡へ至る。このJR山田線の釜石と宮古の間にある岩手船越駅が本州最東端の駅になる。それを知ってわざわざこの駅を訪れる観光客も結構いるようだ。山田湾と船越湾を分ける形で大きく太平洋に東北に向かってせり出した船越半島のちょうど根元に当たる位置にある。これまで2度ほど船越半島の南側にある船越荒神社を訪れたがその途中に船越御所跡の掲示板がある。15mほどの高さの丘の麓の八幡神社参道の鳥居のそばに立っている。目の前は前須賀海水浴場になっており、山上には城館跡がある。「御所」の名に惹かれて1度立ち止まったことがある。「御所」は皇族や公家・武家の高位者などに与えられた御所号と呼ばれるもののようだ。南北朝時代に新田義貞とともに後醍醐天皇について南朝方の中心人物であった、北畠親房の嫡男である北畠顕家(きたばたけ あきいえ)が光明天皇を擁立して北朝方を率いた足利尊氏と戦って1338年に21歳で討たれた。1347年霊山城が陥落すると北畠顕家の嫡男の北畠顕成(きたばたけ あきなり)は追っ手を逃れようと父の北畠顕家が陸奥守であった東北の地を目指して、同じく南朝方であった南部氏の領有する稗貫から現在の山田町船越に入り、船越氏の庇護の下で一時ここに居を設けた。その後北畠顕成は叔父の北畠顕信(きたばたけ あきのぶ、北畠親房の次男)とともに津軽の浪岡に移り住み、浪岡北畠氏として戦国時代を生き延びたが1578年津軽支配の野心を抱いた大浦為信、後の津軽為信によって滅ぼされてしまう。南北朝時代瀬戸内海を掌中に治めていた村上水軍の惣領である村上義弘が南朝方について後醍醐天皇の命を受け、北朝方と戦ったが1374年に没した。そこで河内源氏の庶流と言われる信濃村上氏の頭領である村上師清(むらかみ もろきよ)が後醍醐天皇のいる吉野朝廷で北畠親房より、北畠本家の嫡孫北畠顕成を名乗って瀬戸内海の村上水軍を統率して瀬戸内海を掌握するよう命じられたという説があるようだ。従って北畠親房の嫡孫である北畠顕成の名は村上水軍にも残り、津軽北畠氏にも残る形になっている。北畠親房は1354年に没しており、1374年に村上水軍の惣領である村上義弘が没した後に後を継ぐ村上師清がその時点で北畠親房に会うはずはないので、やはり、北畠親房の嫡孫である北畠顕成は津軽北畠氏となった可能性の方が強いだろう。恐らく北畠顕成の行方が定かでなくなった中で不利な情勢となっている南朝方を立て直すのに南朝の支えであった北畠氏一門の名を使ったのではないだろうか。中世には以外と都人などが東北へ落ちのびたりしているようだ。

船越の八幡神社の鳥居 右手の参道を登ったところが神社と館跡になる

船越の八幡神社の鳥居 右手の参道を登ったところが神社と館跡になる