子供がまだ小・中学生だったころ札幌でよく家族でカラオケへ行った。自分では歌うのが下手なのだが聴くのは嫌いではない。愛知県の岡崎へ移ってもやはりカラオケに行くことがあった。家人や子供は歌うのが大好きだ。釜石へ来てからは時々家人と二人でカラオケに行くようになった。建物も古くなりいつ行っても満室になっているのを見かけることはない店だったが家人は音響がいいので気に入っていた。1週間ほど前に大阪から戻って来ていた二人の子供たちの希望で家族でカラオケに行くことになりいつも行っていた店に行くと2月の末で閉店になっていた。仕方なく市街地の他の店に行くことにしたが何か寂しさを感じさせられた。また釜石では1軒店が消えてしまった。釜石のカラオケは他の店もそうだがずいぶん安い。札幌や岡崎の四分の一くらいの値段だ。これほどの値段にしなければ人が入らないのだろう。店にしてみれば維持するのも大変だろうと思う。ところで、子供や家人が好きな歌に“テノールの貴公子"と言われる秋川雅史が歌う「千の風になって」という歌がある。2007年には日本レコード大賞を受賞している。この歌は作詞:不詳、日本語詞:新井満、作曲:新井満となっている。新井満は多才な人のようで2003年には講談社より写真詩集『千の風になって』を出している。ところが南風椎(はえ しい)という人がすでに1995年に『1000の風』という本を出版されている。南風椎は若い頃4年間米国へ留学しそこでデーブ・スペクターと親交を持ち、帰国後も日本へやって来たデーブ・スペクターとは10年近く毎週日曜の朝ともにレストランで一緒に食事し、米国の新聞や雑誌の面白そうな記事を南風椎のために切り抜いて持って来てくれたという。1980年代の終わりころデーブ・スペクターが米紙のコラムの切り抜きを持って来た。そこには"A THOUSAND WINDS"の詩が紹介されていた。1985年坂本九が亡くなった時、葬儀委員長であった永六輔に良い詩があると教えたのがやはりデーブ・スペクターで、永六輔は葬儀でこの詩を朗読した。1990年南風椎らは200冊の「神」をテーマにした本を集めて日米独伊の200人の芸術家たちにアピールし、岡本太郎、オノ・ヨーコ、荒木経惟、日比野克彦ら100人が参加した。そして南風椎は自らもその200冊に"A THOUSAND WINDS"の詩を入れたいと考え、この詩を日本語に訳してデーブ・スペクターに『1000の風』のパノラマ本を渡して、表に英文の詩、裏に翻訳した詩を書いてくれるよう依頼した。しかしこの時の『1000の風』は手作りのただ1冊の本であった。この5年後に製本された『1000の風』として出版されることになった。1980年代には南風椎は当時まだ電通に勤めていた後の直木賞作家藤原伊織や新井満(芥川賞受賞)、デーブ・スペクターらとは仲のいいグループとしての付き合いがあった。新井満は明らかに南風椎の『1000の風』からの剽窃を自覚しながらさらに「千の風」を商標登録までしてしまった。また新井満は過去にも友人である藤原伊織から新しい小説の構想を聞き出した上でその構想を先に小説として出版したりもしていたようだ。南風椎は心から"A THOUSAND WINDS"の詩を愛し、横浜の静かな森の中で暮らしている。「千の風になって」はほんとうにいい歌だと思う。そして新井満も才能ある人だと思う。それだけにこの「千の風になって」の歌の影で人の心が踏みにじられていることを知ると、たとえ新井満が豊かな才能を持った人物であろうと一人の人間としては色褪せて見えてしまう。

鵜住居の道路脇に咲いていた二色の満作 根元から枝が二つに分かれたように見える