先日の休みの日に山田町船越の荒神社が気になり、もう一度行ってみたかったのと同じ山田町内に魚賀波間神社(ながはまじんじゃ)という変わった字の神社があるのを知ったので出かけてみた。荒神社の前に広がる海に3羽の水鳥がいて、こちらに気付くと沖合へ移動して行った。よく見るとウミアイサであった。冠羽があり嘴に反りがあるのが特徴だ。砂浜をゆっくり歩き、荒神社の第二の鳥居前に出て1785年に造られた阿吽が左右逆の狛犬の間を通り拝殿に向かう。拝殿前に祀られた鉄剣には「荒神大明神」と大書され、正一位とあるが本当なのか。その下には「御祖大神 理久古円段」、「閉伊武者所」、「綿津見神」、「素戔嗚尊」の文字が並ぶ。伝承では「理久古円段」は「リクコタン」で、アイヌの漁の神だという。以前行った延喜式に載るいわゆる式内社である大船渡の尾崎神社は延喜式では古名が理訓許段神社となっており(ただ同じ陸前高田の氷川神社も式内社である理訓許段神社、登奈孝志神社、衣太手神社だという)、尾崎神社には「理久古多の神にささげし稲穂にも えぞの手振りのむかし思ほゆ」という歌も伝承され、実際、アイヌの1本の木から削り出された神道の御幣類似のイナウを宝物として祀っているという。船越の荒神社も大船渡の尾崎神社も海辺の良く似た位置に鎮座し、どこか共通したものを感じる。釜石の尾崎神社の奥宮へはまだ行っていないが恐らくここも同じ系統の神であったのではないかと考えている。これら荒神社や尾崎神社の伝承はいずれもアイヌとされているようだが、やはりアイヌではなくいわゆる「えみし」ではないかと思う。そしてアイヌ語ではなく縄文語ではないかと。小高いところにある閉伊頼基の霊廟を見た後海岸の岩場に立つと釣り人が二人膝まで海に入り糸を垂れていた。昼食をうどんで有名な釜揚げ屋で摂ることにして、頼んだあさりうどんが来るまでにふと山田町の北に隣接する宮古市のことを考えた。宮古市には北上山系である岩神山に発して80Kmの流程を流れて宮古湾に注ぐ閉伊川が流れる。宮古市の「宮古」地名の由来は通説では11世紀初めにこの地の神官が阿波の鳴門の鳴動を治めた事から一条天皇から「都」と同訓異字の「宮古」の地名を授かったとされているが他にもいくつかの説があるようだ。しかしこの説も一見尤もに聞こえるが何かしっくり来ない。褒美に「みやこ」の地名を与えるというのはちょっと不自然に思える。むしろ先日記したように荒覇吐王国の王城が閉伊に移されたことを考えると、閉伊の中心地としてむしろこの宮古市にまさに荒覇吐王国の王都があった可能性があるのではないだろうか。そうした遺跡が今後発掘されればいいが、などと考えていた。昼食を摂った後は魚賀波間神社に向かった。海岸部を走る45号線の山側にある連続する階段上に鎮座していた。拝殿は古い建物が失われたのか味気ない最近の資材を使った建物になっていた。最初の狛犬たちもまだ新しいものだったが拝殿の右にある小振りの狛犬は頭部に角があり、それぞれ海側の前足が後ろへ引かれて後ろ足と一緒になった変わった狛犬だ。1795年に造られたもののようだ。拝殿の右奥には「白龍稲荷」と名された稲荷神社が祀られていた。魚賀波間神社は以前は澤養寺という寺の守護をしていたが、坂上田村麻呂の蝦夷征討の時ここに来て、鬼を退治したことに由来する鬼拔大明神を祀ってこの長浜の地に移されたという。地名の長浜もおそらくは「魚賀波間」と記されていたものだったのだろう。そこにはやはり縄文語系の臭いがするように思う。帰路は道の駅「やまだ」に立寄り、いくつかの買い物をしたがイルカの肉が売られており、三陸近辺にイルカが遊泳していることを思い出した。イルカの肉と言うのは食したことがなかったので試みに買ってみることにした。自然保護の点から言ってもおそらく闇雲に捕獲しているものではないのだろうと思う。釜石では見かけたことがない。一度はせっかく三陸にいるので海で実際にイルカを見てみたいものだ。

45号線道路脇の魚賀波間神社の鳥居 階段を登り切って振り返ると山田湾が一望に見渡せる

階段の上の第二の鳥居そばの比較的新しい「阿」の狛犬

1795年に造られた角のある「阿」の狛犬 左前足が後ろに引かれた珍しい狛犬だ

魚賀波間神社の拝殿 中に大事なものを納めているのかかなり厳重な戸締まりがされていた

拝殿右奥の白龍稲荷 白龍稲荷や白龍明神などの白龍のつく神社は各地にあるようだ

45号線道路脇の魚賀波間神社の鳥居 階段を登り切って振り返ると山田湾が一望に見渡せる

階段の上の第二の鳥居そばの比較的新しい「阿」の狛犬

1795年に造られた角のある「阿」の狛犬 左前足が後ろに引かれた珍しい狛犬だ

魚賀波間神社の拝殿 中に大事なものを納めているのかかなり厳重な戸締まりがされていた

拝殿右奥の白龍稲荷 白龍稲荷や白龍明神などの白龍のつく神社は各地にあるようだ