岩手は昨日午前中から雪が降り続き、夜になっても風が途絶えた中で深々と降り続け、街灯に照らされた雪が煌めきながら落ちていた。釜石へ引っ越して来て最高の雪になった。1894年の日清戦争で日本陸軍は多くの将兵が凍傷に悩まされたことから来るべきロシアとのさらなる厳寒地での戦いに備えて訓練を行うことになった。1902年1月20日弘前歩兵第31連隊は弘前を出発して十和田湖の南岸を東へ進んだ後北上し八甲田山北山麓を西北に進んで青森へ向かうルートをとることになり群馬県新田郡世良田村出身の35歳の福島泰蔵大尉が指揮をとり250Kmの行程を無事走破した。一方同じ青森県の青森歩兵第5連隊は1902年1月23日青森を出発して同じ八甲田山の北麓を逆に西北から東南へ南下して八戸へ至る50Kmの行程を行くことなった。福島泰蔵大尉が指揮をとる弘前隊は総勢37名であったが青森隊は秋田県北秋田郡鷹巣村出身の32歳の神成文吉大尉が一応指揮官であるとされながら実際は大隊長の山口鋠少佐や他の大尉も随行し、総勢210人にもなった。青森隊は地元の道案内の申し出を断り、地図とコンパスのみで八甲田山へ入り、初日から吹雪に見舞われたちまち立ち往生する状態となった。2日目朝から指揮に山口鋠少佐の影響が出てさらに青森隊は道程に難渋するとともに犠牲者を出し始める。兵卒の装備は余りにも軽微で冬山の過酷な寒さなど考慮されていなかった。またほとんどの兵卒が岩手県と宮城県の農家出身者で冬山の経験者はおらず、指揮官も急遽決定され、準備の十分な時間もなかった。2日目からは以後統制も乱れ事実上の遭難状態となり、2泊3日の予定であった行軍は想定外の状況に追い込まれた。11日目に最後の生存者が発見されるまでに多くの将兵が倒れ、発見後凍傷のために亡くなったものを入れると210名中生存者はわずか11名であった。将校11名中2名が生存し、山口鋠少佐もその一人であったが衛戍病院入院中に死亡しており、入院中の記録を調べた弘前大学医学部麻酔科の松木明知教授はクロロフォルム麻酔による心臓麻痺の可能性が強いと指摘しているという。また当時の担当医師もその後変死しているという。兵卒148名のうち生存した4名は全員山間部出身者で冬山の過酷さを知っており、そのための工夫も身に付けていたようだ。生存した将校・準士官3名は後遺症はなかったが兵卒・下士官8名はすべて凍傷のために四肢の何れかまたは全てを切断されている。無事帰還した弘前隊の場合は地元の案内人に先導してもらっており、指揮も1元化され、青森隊に比べ少人数で統制がとれていたのだろう。弘前隊の指揮官福島泰蔵大尉もしかし3年後の日露戦争で戦死している。この雪中行軍が行われた時は日本各地でも記録的な寒気団に見舞われていた最悪の気象状態だったようで八甲田山中でも-20度くらいになっていたようだ。新田次郎により『八甲田山死の彷徨』が書かれ、それを原作に1977年映画『八甲田山』が公開された。

前日雪が降った朝に空には月が残っている

前日雪が降った朝に空には月が残っている