子供の頃に通った小学校への道はプラタナスの並木になっていた。そのプラタナスの葉で飛行機を作ってそばの川に向けてよく飛ばした。秋になるとその葉も枯れて散ってしまう。はじめて迎えた大学での秋には校庭の銀杏並木に深く沈みそうなほど積もった銀杏の黄色い葉が歩くたびに音を立てていた。その時はさほど印象深く感じていなかったようでも後になって意外に記憶に残っているものだ。毎年秋になり枯れ葉が舞う頃になると必ず頭のどこかにふと浮かんで来る詩がある。「秋の日の ヴィオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し」秋の日射しの明るい日中よりもどちらかというと夕暮れの少し日が傾きかけた頃にふと浮かぶことが多い。仏国の詩人ポール・ヴェルレーヌの詩だ。学生時代に神田の古本屋街で古い岩波の文庫本で買ったように思う。上田敏の訳だったと思う。その頃ランボーやマラルメなどの印象派の詩やいくつかの美術館のやはり印象派の絵画にも触れた。その後の煩雑な毎日の中で大部分が記憶から落ちて行った。また秋の初めには大学の初め頃に亡くなった祖母がよく口にしていた 秋きぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる という百人一首にもある古今集の和歌が思い出される。開け放ったガラス戸の外に小さな池とやはり小さな築山が見え、手製の腰掛けにかけた祖母が外を吹く気持ちのよい風を感じて口ずさんでいた。藤原敏行の作とされる。平安初期の陸奥出羽按察使藤原富士麿の子である。三十六歌仙の一人に数えられ、空海とともに能書家としても知られていたようだ。釜石の気温からすればもう冬と言ってもおかしくはないが市街地や周囲の山でまだ見られる紅葉や風に舞う枯れ葉を見ていると過ぎ去ろうとしてはいるが秋をまだ感じる。人生もまた季節で表せば秋はやはり老いに向かう時期ということになるのだろうと今あらためて考える。

周囲の山の木々の葉が散り始めていても平地近くではまだ紅葉が見られる木が残る