わが恋の如くかなしやさくら貝 かたひらのみの寂しくありて 鈴木義光は思いを寄せていた乙女を北海道に残して作曲家を目指して上京した。鎌倉に住んでいる時乙女が十八歳でこの世を去ったことを知り、昭和十八年逗子の浜辺に立ち、この詩を詠んだ。北海道に駆けつけた鈴木は、横山八重子を偲んで、八重子から八、戒名から秀を取って八洲秀章と名乗る。北海道から戻ると逗子町役場に勤める友人に作詞を頼み、自らこれに曲を付けた。後に知られる さくら貝の歌 が出来上がった。貧しく作曲もほとんど自力で学び、唯一後に山田耕筰に認められる。その後「あざみの歌」「山の煙」「毬藻の歌」「チャペルの鐘」など次々に作曲し、生涯で3000曲以上を作り、昭和60年70歳で亡くなる。昭和45年月刊漫画ガロ1月号~翌年1月号に連載された林静一の赤色エレジーに触発されてあがた森魚が作詞し、八洲秀章が作曲、同名の歌 赤色エレジー が作られ、当時の世相に受け入れられた。ただ一応八洲秀章作曲とはなっているが大部分はあがた森魚自身によると言われている。八洲秀章の抒情的な世界を思うとらしくない作曲であり、そのためもあって認めようとしない八洲ファンが多いようだ。確かに彼の作曲家としての基本は さくら貝の歌 にあるように思う。単純にみて一月に5曲以上の作曲を行い、ずいぶんと多作であるにもかかわらず一般には「さくら貝の唄」「あざみの歌」「毬藻の歌」が最もよく知られ、これほど多くの作品があることなどはほとんど知られていない。劇団四季にもいたミュージカル歌手沢木順は八洲秀章の子である。親子ともに羊蹄山の麓北海道虻田郡真狩村の生まれだ。北海道に住んでいたころ阿寒湖へは何度も出かけた。遊覧船に乗ると必ず芹洋子が歌う「毬藻の歌」が聞こえて来た。四国の小学校の同級生が夏休みに母親の郷里である阿寒湖へ行き、休み明けに教室に毬藻を持って来て窓際にそのまま置いておいた。そしてその時はじめて「毬藻の歌」を知った。

遠野方向の釜石周辺の山に積もった雪が見られるようになった