先日四国へ行った時に兄と家系図の話をした。鎌倉時代まで辿れる家系図がある。実家の墓のある地域は村上水軍の拠点が近く、我々の先祖もやはり村上水軍に属していた。愛媛県宇和島沖の日振島を根拠地として瀬戸内海を広域に活動したかっての海賊は10世紀の伊予掾(いよのじょう)の地位にあった藤原純友の乱に中心的な役割を果たしたが、同じ愛媛県の大三島近辺を拠点とする初期の村上水軍はこれを迎え撃つ官軍側に立って戦った。その後村上水軍は源平の合戦では源氏側に付き、元寇の役では博多湾や壱岐で元の軍船と戦っている。南北朝時代は南朝側に付き、後醍醐天皇の皇子、懐良親王を伊予に向かえ、北朝側と戦ったと言う。瀬戸内海でも最も多くの島が密集する芸予諸島を根拠地として周辺の島々に次々に水軍城が造られて行った。戦国時代には毛利軍に付き、安宅船と呼ばれた大型船を有する200艘あまりの織田水軍に立ち向かった。豊臣秀吉の朝鮮の役でも日本水軍として参加している。江戸時代には毛利水軍として瀬戸内海の警護に当たったようだ。村上水軍の多くは弘法大師、空海の四国八十八ヶ所霊場があるように真言宗徒だったようだ。村上氏の起こりは定かでない部分もあるが河内源氏の庶流信濃源氏から来ているようで12世紀半ばに信濃から伊予へ移ったと思われる。子供の頃母方の親戚筋がみんな外国航路の機関長であったり、英国系の海運会社に勤めていたりしていたことが不思議であると同時に憧れでもあった。自分も是非大きな船に乗りたいと思った。近所に商船学校へ入った大先輩もいた。しかしそのころの商船学校や商船大学校は視力に厳しく、もうそれだけで入学資格を失っていたので諦めざるを得なかった。自分たちが村上水軍の末裔であることを知ったのはずっと後になって外国航路の大型船の機関長をやっていた伯父から教えられた時だった。

四国の実家の庭に咲いていた杜鵑草(ホトトギス)