江戸時代中期に気仙郡高田村(陸前高田)の医師相原友常の長男として生まれた相原友直は1773年「平泉雑記」五巻を著した。相原家の祖は1641年伊達兵部宗勝(伊達政宗第十三子)に従って一ノ関城に家老職として赴任した。しかし1671年の伊達家騒動により、次男であった父相原友常が高田村に医師としてまた儒学者として移り住んだ。息子の相原友直は仙台と京都で医学、儒学、暦学、本草学、地誌等を修めて仙台藩の藩医として登用された。1730年高田村の父の病のため藩医を辞して高田村へ帰る。以後医師として働きながら多くの著書を著す。その一つが先の「平泉雑記」である。この第五巻十五に安倍家系がある。そこでは奥州安倍氏の由来が書かれている。安日彦・長脛彦兄弟が神武の東征により東北、津軽に逃れ、安日彦が安倍氏の祖となったということが書かれている。多少の相違はあるが相原友直より少し若い秋田孝季の著した「東日流外三郡誌」でもほぼ同内容のことが記されている。神武の東征の頃に東北の地、津軽にアラハバキ神を持つ荒吐(あらはばき)族が統合されたことが書かれている。ただどちらの書も古事記に長脛彦の名が神武の東征の記事に登場するため誤解しているようだ(この長脛彦とは別人である)。筑紫の日向にいた兄弟が津軽へ渡ったのはもっと早い弥生前期と思われる。稲作が北九州と同じ方法で突如本州北端に現れた時期である(弘前市の砂沢遺跡など)。安倍氏は前九年の役(1051-1062)で安倍氏としては滅亡するが安倍頼時の娘が藤原経清との間で生んだ子が奥州藤原氏の初代藤原清衡であり、安倍氏の系譜は血脈としては奥州藤原氏へと繋がる。東北は奥州藤原氏の滅亡後源頼朝の関東武士への報償として分封された。またその後は豊臣秀吉の小田原攻めに参加しなかった奥州領主たちへの奥州仕置きにより廃されたり、領地替えが行われた。東北の中世から近世の歴史は日本の歴史同様史実が比較的多く残されているが古代だけはやはり日本の歴史と同じく謎が多い。古事記・日本書紀は大和朝廷の正当化のための正史であり、遺跡の発掘はそれらに書かれていることに次々に疑問を投げかけている。

我が家の二輪草

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