九州の島原半島は江戸時代初期にはキリシタン大名有馬晴信の領地であり、天草諸島はキリシタン大名小西行長の領地であったが幕府はキリスト教を禁じ、それぞれの地に松倉重政が島原藩主として、寺沢堅高が唐津藩主として替わり、いずれもが過酷な取り立てを行う。とくに松倉重政は野心に燃えて必要以上に出費のかかる役割を果たそうとしたため年貢は過酷を極めた。次代の松倉勝家も同様な姿勢を継続し、キリシタンの弾圧も父親同様残酷極まる手段を取り続けた。過酷な年貢に耐えかねた小西、有馬の浪人を含んだ領民たちは会合を重ねてついに1637年末に島原・天草の乱をわずか16歳の天草四郎時貞(本名:益田四郎時貞ー小西行長の家臣益田甚兵衛の子)を総大将に立てて起こした。最終的に原城の籠城には3万7000人が加わり、幕府軍はこれに対して12万以上の兵で対峙したと言う。1638年4月12日乱は終結するが籠城した3万7000人のほぼ全員が死んだ。以後幕府はキリシタン弾圧と廃城の撤去を強化する。当時仙台藩の大籠一帯(現在の岩手県藤沢町)はタタラ製鉄が盛んで製鉄の技術指導のため備中国(岡山県)より招かれた千松大八郎・小八郎兄弟がキリシタンであり、人望もあった所から信徒が急速に増えた。そこに幕府のキリシタン弾圧強化が及び1639年からこの地で300人以上の人たちが首をはねられ、磷付にされ処刑された。藤沢町は東北の島原と言われ、現在も洞窟のマリア像や礼拝所が残されており、処刑された人々の供養の石碑がある。洞窟は処刑を免れ、隠れキリシタンとなった人々に利用されたものだろう。カソリックの教会もあり、ローマ法皇からのメッセージもあるようだ。江戸時代のキリシタンの殉教者は各地にいたと思われるが製鉄の盛んだった岩手では特に製鉄技術者にキリシタンが多かったため島原・天草を除くと次ぎに数が多かったものと思われる。自らもカソリックの洗礼を受け、キリスト教信仰をテーマにした書籍を多く書いている作家遠藤周作もこの地を訪れ、その後一書を著している。

山裾に咲く菊咲一華(きくざきいちげ)

山裾に咲く菊咲一華(きくざきいちげ)